中村均師、負けの美学 これが俺の真田幸村の人生

2月いっぱいで定年となる調教師が語る連載「明日への伝言」、19年の第1回は栗東中村均師(70)。調教師としてトウカイローマン、ビートブラック、マイネルマックスでG1を勝利するも、父中村覚之助元調教師(故人)に託されたダービー制覇の夢はかなわなかった。日本調教師会会長も務め、競馬界の発展に尽力した。【取材・構成=網孝広】

実は獣医師なんです。教員免許も持っている。高3の時、小さい頃から犬好きで、獣医師になろうと。父親が調教師だったからというのもあった。麻布獣医科大に入学して、馬術部に入りました。そこで、すごく馬にひかれた。卒業後は父の厩舎の厩務員、半年後に調教助手になった。僕が調教師というぐらい、馬の面倒をみた。早くから調教師としての帝王学を学んだ。調教師になるのも早かった。28歳で合格して40年以上たちましたね。

父は辞める時、「自分の果たせなかった夢を、ダービーを取ってほしい」と言い残して引退した。父はダービーは1、2回しか出られなくて、成績も良くなかった。父の思いもあったし、僕自身もホースマンとして、ダービーを取りたいとずっと思っていた。求めたのは、エリートの馬で勝つのではなく、野武士のような感じの馬で天下を取る。100万円、200万円の馬で何億円の馬を負かすことにロマンを感じた。

実は、子どもの頃から真田幸村が好きでね。わずかな兵力で、徳川家康をあと1歩まで追い詰めた。そういうのが大好き。自分も無印の馬で一発狙う。それを40年以上やってきた。セリに馬を買いに行く時も、何千万の馬には見向きもしない。キンショーユキヒメ(18年福島牝馬S勝ち)なんて200万円です。ビートブラックは14番人気で天皇賞・春を勝ちました(12年)。

一番思い出深いダービーは、98年のボールドエンペラー。スペシャルウィークの2着。5馬身差だった。以降、着差はもっと開いた。2度と影は踏めなかった。きさらぎ賞の時、ボールドエンペラーは重賞を勝っていたけど、スペシャルウィークにあっさりかわされた。この馬はただもんではないと感じましたね。

その後から、河内(洋、現調教師)が乗ってくれた。皐月賞は6着。河内は皐月賞を捨てて、この馬の脚を計ってくれた。「これならダービーでいいところがある」と言ってくれた。生涯一の出来に仕上げて、ダービーは武豊マーク。4角を回った時、武豊がステッキを落とした。僕は見えなかったけど、河内には見えた。「よし、これで勝った」と思ったらしい。追い出したら向こうはステッキなしなのに、全然かなわない。スペシャルウィークさえいなければ、無名の14番人気の馬でダービーを取れたのに・・・。こんな悔しいことはなかった。でも、どこかで満足もしていた。これが俺の人生だなと思った。真田幸村の人生だと。一瞬、あっと思わせて、最後は強いやつに負ける。いい線までいくけど・・・負けの美学ですね。

71年にこの世界に入って48年。49歳で関西本部長、54歳で日本調教師会の会長になった。昔から、競馬会とはいろんな話をしました。栗東に長い坂路コースをつくるために尽力した。プールもつくってもらった。チップコースも昔は砂で、その下に硬い地面があるから馬が故障する。馬場にチップを敷きましょうと。その後、一気に栗東の馬が故障しなくなった。坂路とチップコースができて、関西が関東より強くなりました。これからも、もしアイデアを求められたら、何か出せるかなとは思っています。(談)

◆中村均(なかむら・ひとし)1948年(昭23)9月13日、京都府生まれ。麻布獣医科大卒(現麻布大学)。71年に父中村覚之助厩舎所属の厩務員となり、後に調教助手。77年調教師免許取得。初出走は78年7月8日中京1Rアイチハヤオー(2着)。通算719勝。重賞31勝。G1は84年オークス(トウカイローマン)、96年朝日杯3歳S(マイネルマックス)、12年天皇賞・春(ビートブラック)。

12年4月、天皇賞・春を制したビートブラックと石橋騎手。左は中村師
12年4月、天皇賞・春を制したビートブラックと石橋騎手。左は中村師