シーキングザパールとタイキシャトルが歴史を変えた

<1998年(平10)>

 初めて世界制覇を果たした、あの夏-。「Legacy ~語り継ぐ平成の競馬~」で平成10年(98年)の日本調教馬による海外G1初Vにスポットを当てる。モーリスドゲスト賞(芝直線1300メートル、仏ドーヴィル)でシーキングザパールが悲願をかなえ、翌週のジャックルマロワ賞(芝直線1600メートル、仏ドーヴィル)もタイキシャトルが制覇。2週連続の快挙は、日本競馬界の「海外コンプレックス」を振り払った。【取材・構成=太田尚樹、木南友輔】

 20年前の夏、ドーバー海峡を望む仏ドーヴィル。快速娘シーキングザパールが、日本調教馬として海外G1を初制覇した。鮮やかに逃げ切った武豊騎手は「1つの夢がかなった。日本のホースマンにとって今日の勝利は大きい」と馬上で両手を挙げた。フランス語で驚きの声が渦巻く中、森師は当然と言わんばかりに胸を張っていた。

 森師 勝つべくして勝った。日本馬は強い。『行けば勝てる』と思っていた。

 皇帝シンボリルドルフさえ跳ね返された世界の壁。遠征に二の足を踏む陣営が多かったが、森師は違った。当時39歳。開業から5年足らずで8度もの海外遠征を敢行。95年に日本人調教師で初めてケンタッキーダービー(スキーキャプテン=14着)に挑んでいる。

 森師 前に『東高西低』と言われていた時代でも(関西馬陣営は)みんな『東と西では1クラス違う』とか思い込んで、誰も(関東へ)使いに行くことさえしなかった。海外も同じ。

 挑戦なくして成功なし。シーキングザパールについても3歳春にNHKマイルCを勝つとさっそく海外遠征の計画を練り始めた。

 森師 東京へ行くぐらいのつもりで。関空からアンカレジ経由で14時間。(馬運車で20時間以上かかる)北海道より早いからね。

 当初はジャックルマロワ賞も検討したが「タイキシャトルには勝てる気がしない」と1週前のモーリスドゲスト賞を選択。調整地はあえて、英ニューマーケットを選んだ。

 森師 ニューマーケットには(ウッドチップの)坂路があったから。ウチはいつも坂路でしか乗ってない。輸送も(ドーヴィルまで)8時間ほどで、栗東から中山へ行くぐらいだった。

 信念、挑戦、決断-。そして、歴史は塗り替えられた。翌週にはタイキシャトルも勝ち、日本のホースマンたちにとって、世界は遠いものではなくなった。

 外国産馬として史上初の年度代表馬に輝いたタイキシャトルは米国で生まれ、アイルランドで育成され、日本にやってきた。4歳になった98年安田記念を圧勝。シャンティイに滞在し、各国のギニー(皐月賞、桜花賞に相当)を勝った馬や欧州を代表するマイラーが集う伝統のG1ジャックルマロワ賞を制した。

 「直線競馬だからって特別な調教をすることはない。ただ、日本の馬はスピードがありすぎる。スタートしてすぐに岡部騎手が顔を横に向けさせたが、あれがなければハナヘ立って、向こうの馬たちに格好の目標にされてしまうところだったね」

 そう振り返る藤沢和師にも、心残りはある。「本当は(3週間前の)サセックスSを使いたかったが、オーナーサイドとの話し合いで万全を期して使わなかった。でも、シャトルなら勝っていたと思う」。もう1度、ドーヴィルで勝つ、そして、40年前に自らが修行した英国の地でG1を勝つ。平成の競馬は終わっても、藤沢和師の夢は終わらない。

 ◆日本馬の海外挑戦 58~59年にダービー馬ハクチカラが米国遠征したのが最初で、59年ワシントンズバースデーハンデでは海外重賞初制覇を果たした。以後はスピードシンボリやシンボリルドルフなどが海を渡ったがG1制覇はならなかった。武豊騎手は94年にフランス馬スキーパラダイスでムーランドロンシャン賞を制し、日本人騎手として初めて海外G1を勝った。

98年8月10日付日刊スポーツ1面
98年8月10日付日刊スポーツ1面