善戦マン・ナイスネイチャが起こした「中京の奇跡」

<94年 高松宮杯>

 平成の競馬史を振り返る「Legacy~語り継ぐ平成の競馬~」は今回、夏の中京編としてナイスネイチャ(松永善)を取り上げる。惜敗のたびに注目度を増し、2年7カ月ぶりに勝利を挙げたのが平成6年(94年)の高松宮杯。当時、中京芝2000メートルで行われていたG2戦は、6万人超の大観衆が見届けた。異色のスターホースも平成の競馬史に名を刻んでいる。【取材・構成=柏山自夢】

 最後の直線。松永昌騎手(現調教師)の目に、観衆でぎっしりの小さな中京スタンドが飛び込んできた。手綱に、忘れかけていた手応えが伝わってくる。「勝てる」。馬群の中央で、ナイスネイチャがぐんと勢いに乗った。直線はすぐ内にいた2頭との三つどもえ。残り100メートル手前で内のアイルトンシンボリ(4着)が脱落。最後にスターバレリーナを競り落とした。懐かしい、無人のゴールだ。「ダービー馬(ウイニングチケット=5着)もいて、強いメンバーだった。ここで勝つのかと」。波のような歓声、紙吹雪が舞った。

 想像もしなかった姿だ。若き日のナイスネイチャは「切れる脚を使う」決定力の塊。3歳(当時は4歳表記)夏から重賞連勝を含む4連勝。菊花賞(4着)を挟み、鳴尾記念で早くも重賞3勝目を手にした。続く有馬記念はメジロマックイーンに次ぐ2番人気と、古馬に割って入る高評価。「G1も勝てると思っていた」。

 しかし、その有馬記念3着から、妙な運命が始まった。骨膜炎で翌春を全休すると、復帰戦の毎日王冠から3着、4着、3着、3着。2着があって、また3着。「何とかならんのかと。乗っていてイライラすることもあった」。かつてのスター候補は、いつしか“善戦マン”が代名詞に。有馬記念3年連続3着の珍事とともに、すっかり定着した。勝負の世界では不名誉な称号かもしれない。ただ、だからこそ愛された。「だんだん馬力もなくなっていった。ただ、いつも一生懸命に走った」。この上なく判官びいきの心をくすぐった。

 厩舎には応援の手紙が殺到。ナイスネイチャ目当てに競馬場を訪れるファンも増えた。94年高松宮杯は観衆6万5159人の大入り。中京ではハイセイコー(74年高松宮杯)以来の6万人超えだった。「競馬の神様も『もう1回くらい』と思ったのかもしれない」。見る者全てを味方につけ“中京の奇跡”を起こした。

 「もう駄目か、と常に思っていた」。感動と、諦めないことの大切さを教えてくれた、現役最後の1勝。G1タイトルには縁がなかった。それでも、ムチを置き調教師となった今も、松永昌師はナイスネイチャの元を年数回訪ねる。どんな勲章よりも、魅力的なものを持っているから。ナイスネイチャを知る人なら、皆うなずくはずだ。

 ◆ナイスネイチャ 1988年(昭63)4月16日、北海道浦河町の渡辺牧場で生まれる。父ナイスダンサー、母ウラカワミユキ(母の父ハビトニー)。鹿毛。栗東・松永善晴厩舎から90年12月にデビュー。通算41戦7勝、うち重賞は91年小倉記念(G3)、京都新聞杯(G2)、鳴尾記念(G2)、94年高松宮杯(G2)の4勝。総収得賞金6億2358万6000円。

94年、高松宮杯を制したナイスネイチャ
94年、高松宮杯を制したナイスネイチャ