星野忍師、かっこいいジョッキーもう1回やりたいな

今月末で引退する調教師が語る「明日への伝言」。美浦・星野忍調教師(70)は騎手時代にJRA障害競走通算254勝のJRA記録を打ち立て、今も抜かれていない。中山大障害7勝、世界障害騎手チャンピオンシップでは日本代表として障害競走の聖地、英国チェルトナムで勝利を挙げるなど、国内外で活躍したレジェンドだ。【取材・構成=三嶋毬里衣】

中学の頃から馬には乗っていたよ。学校帰りに(厩務員だった)父の厩舎に寄って午後運動の手伝いをしていた。東京競馬場の売店でジュースを運ぶアルバイトもしていて、当時から競馬は見ていたからジョッキーがかっこいいと思っていたんだ。ただ、友達は高校に行くから、迷っていた。そんな時に父から「ジョッキーになった方がいいんじゃないか」と。最終的にはその一言が決め手だった。

ジョッキーになってからは「どんなに走らない馬でも、どこかで見せ場をつくらせないと」と思って乗っていた。俺のファンのためにも、オーナーのためにも。そういうことを心がけていたね。それが結果にもつながったと思う。勝率、連対率、すごくいいと思うんだ(※注1)。自分の騎乗に自信もあった。ただ、自信が過剰な時もあった。たくさん勝っているから、俺の腕で勝たせていると思っていたんだ。そんな時に5回くらい連続で落ちて、初心に戻らなくちゃいけないと思った。初心に戻るというのは、自分が動かそうと思ってはいけないということ。馬が跳びやすい時に、逆らわないように跳ばせる。初心に戻ってからはいい競馬が出来るようになった。自分でも納得のいく、面白いレースをファンに見せてあげられれば、それが一番じゃないかな。

日本代表として障害騎手チャンピオンシップ(※注2)にも行った。3回行って2回勝った。日の丸を背負うんだから責任は重いよな。英国では抽選で見たこともない馬にいきなり乗って、コースもよく分からない中でレースをした。コースを見た時はこんなところで走れるのか、と思ったよ。日本みたいに整備されていなくて地面はボコボコ。しかも負担重量が約75キロで俺は50キロくらいだったから、鞍に20キロ以上の鉛を詰め込んだ。今思うとそんな中でどうやって勝ったか、分からないよ。

調教師でも重賞を勝たせてもらった。ヤマニンアラバスタで(05年の)新潟記念を勝った時はうれしかったよ。重賞を2つも勝ってくれた。だけどこの世界はやっぱりジョッキーが華、裏で支えるのが調教師。もう1回、ジョッキーやりたいな。勝った時の喜びだろうな。やっぱり楽しいよ。

引退は知らないうちにきちゃった感じ。昨年は全然感じていなかったけど、最近になって1日1日が短くなっているような気がするよ。楽しかったり、悲しかったり、いろんなことがあった。本当は調教師でもっといい仕事が出来たらよかったんだろうけど、個人の馬主さんにはかわいがってもらったし自分なりに一生懸命やったと思う。ジョッキーの時も調教師の時も応援してくれるファンがいっぱいいたから、今までありがとうって言いたいね。

◆星野忍(ほしの・しのぶ)1950年(昭25)12月29日、東京都生まれ。71年に騎手デビュー。障害と平地でJRA通算2328戦310勝。特に障害通算254勝はJRA記録。97年に調教師免許を取得し、98年に開業。15日現在、JRA通算130勝。重賞は05年新潟記念、府中牝馬S(ともにヤマニンアラバスタ)、12年日経賞(ネコパンチ)、18年オーシャンS(キングハート)の4勝。

※注1=障害競走の通算成績は1198戦254勝。勝率21.2%、連対率37.1%、複勝率49.8%の好成績を誇る。

※注2=各国から障害競走の名手が集まり技術を競う国際競走。第1回は日本代表として星野忍騎手が参戦。1戦目でデザートヒーローに騎乗し、2着に15馬身差をつけて完勝するなどの活躍を見せて総合4位だった。

総合4位になった第1回世界障害騎手チャンピオンシップについて書かれた英国の新聞を手に笑顔の星野忍調教師(撮影・三嶋毬里衣)
総合4位になった第1回世界障害騎手チャンピオンシップについて書かれた英国の新聞を手に笑顔の星野忍調教師(撮影・三嶋毬里衣)
89年、中山大障害を制したキョウエイウォリアと星野忍騎手
89年、中山大障害を制したキョウエイウォリアと星野忍騎手