コスモバルク負けられない挑戦/セントライト記念

<2004年(平16)>

地方の怪物が日本中の競馬ファンを熱くした。平成の競馬史を振り返る「Legacy~語り継ぐ平成の競馬~」は、平成16年のセントライト記念をレコード勝ちのコスモバルク(田部)。ホッカイドウ競馬所属馬として、果敢に中央の門をたたき続けた名馬。菊花賞出走権獲得へ、必勝態勢を敷いた田部和則師(72)が当時を振り返った。【取材=松田直樹】

田部師は無意識にガッツポーズを繰り返していた。コスモバルクが意気揚々と検量室に引き揚げてくる。「鮮明に覚えています。なんとしても権利を取らないといけませんでしたから」。「雑草魂」全開の2角先頭。ホオキパウェーブ、トゥルーリーズンの追い上げに首差耐え抜く逃げ切りに喜びがあふれ出た。直線失速で8着に終わったダービー。ひと夏を越し、強いバルクがエリートぞろいの中央の舞台に戻ってきた。

絶対に落とせない一戦だった。バルクはJRAではないホッカイドウ競馬の所属馬。そのため、3歳春までにラジオたんぱ杯2歳Sと弥生賞の重賞2勝、皐月賞2着など十分な収得賞金があっても、菊花賞出走へは優先出走権が付与される3着以内に入ることが必須条件だった。「毎回が本番でした」。負けはすなわち、クラシックロードからの撤退を意味する。G1並みの勝負仕上げを求めた。

3冠皆勤がかかるトライアル。必勝を期して情熱と経験を注いだ。バルクは外厩制度の適用第1号。夏場も田部師は5回全ての追い切りで手綱を取った。開催中の旭川競馬場から調整先のビッグレッドファーム真歌トレーニングパークまでは車を飛ばして片道約3時間。午前2時に起床し、管理馬の調教をつけて自家用車で牧場へ。「全部の追い切りに乗ったのはこの時だけ。勝たないといけない、その思いだけでしたから。不思議と疲れは感じなかったですね」。連日、午後には旭川でナイター競馬が待っている。いつしか国道237号の金山峠の麓で30分ほどの仮眠をとるのが習慣になった。

菊花賞に向け、師の胸中には期待と重圧が同居していた。当時の地方競馬は全国的に売り上げ低迷期。「ちょっとどころじゃなくて、どん底。だから皆さんの応援の声も多くて、励みにもなりましたね。地方から中央のG1に出走させるなんて夢の夢の夢。まして勝ちも意識できたんですから」。挑戦自体が地元に希望をもたらす。大舞台にいることが知名度回復につながると信じていた。

秋始動戦、馬体重18キロ増で迎えた北海優駿は2着馬には半馬身差の辛勝。そこから12キロ絞っての中央再登場だった。陣営の熱意に馬は結果で応えた。平成16年の3冠戦を走りきったのは、バルク、ハーツクライ、グレイトジャーニー、スズカマンボのわずか4頭。引退までに有馬記念には6年連続で出走した。田部師は「バルクのおかげで地方は潤ったと思います」とこうべを垂れる。偉大な歩みは地方創生という大役も果たした。そのまぶたの奥には赤くともる「レコード」の4文字が焼き付いている。

◆コスモバルク ▽父 ザグレブ▽母 イセノトウショウ(トウショウボーイ)▽馬主 (有)ビッグレッドファーム▽調教師 田部和則(門別)▽生産者 加野牧場(北海道新ひだか町)▽戦績 48戦10勝(うち中央35戦4勝、海外4戦1勝)▽総収得賞金 6億4361万800円(うち中央4億6362万5000円、海外1億6144万7800円)▽主な勝ち鞍 03年ラジオたんぱ杯2歳S(G3)、04年弥生賞(G2)、セントライト記念(G2)、06年シンガポール航空国際C(G1)

04年、セントライト記念に勝利するコスモバルク(左)
04年、セントライト記念に勝利するコスモバルク(左)
田部和則師
田部和則師