日刊スポーツ

OGGIのOh! Olympic

技の進化に警鐘鳴らす声も ショーン・ホワイトから王座を継承した平野歩夢の新たな役割

スノーボード男子ハーフパイプ決勝の2本目でエアを決める平野歩夢(ロイター)

平野歩夢の金メダルには、震えた。2回目が終わって2位。「もしかしたら、勝たせないつもりかな」とも思った。トリプルコーク1440は成功させたことはすごいが、ジェームズの2回目もすごかった。ジャッジへのアピールでは平野歩夢以上だったかもしれない。

トリプルコーク1440は確かに超大技だ。軸を斜めにしながら回転(縦に1回転しながら横に1回転)するコーク技を3回、前後に180度ずつ回り計1440(4回転)。前回の平昌五輪では平野歩夢とホワイトがダブルコーク1440の連続技で金メダルを争ったが、今は多くの選手が楽々とこなしている。

技の進化はすさまじい。初めてHPが採用された98年長野五輪ではマックツイスト(横1回転半の間に体を前転させる)が注目された。その後、大会ごとに1回転ずつ増えているような感覚だ。平野歩夢自身も「トリックがすごいことになっている」と話していた。

もっとも、大会ごとに大型化するパイプの形状によるところも大きい。今大会はこれまで最大級とされていた半径7メートルを超えるパイプ。長野大会時の倍だ。コースが大きくなれば、大きな技ができるようになる。

もっとも、技が大きくなれば危険度は増す。冗談ではなく選手は「死も覚悟する」という。パイプの底まで7メートル、パイプの上部から6メートルも飛び上がる。底からならビルの5階ぐらい。固められた固い雪に体を打ち付けての大けがも多い。

スノーボードなどエクストリームスポーツは、もともと隣り合わせの危険を楽しむ部分ある。ただし、五輪は別。Xゲームにはない年齢制限が、五輪はある。年齢制限を設けなかったスケートボードで13歳の金メダリストが誕生したが、いずれは制限されるだろう。

さらに、スノーボード界には技の進化に警鐘を鳴らす声もある。ジャッジの採点は「全体の印象」。技の難度だけでなく、安定感や独創性などさまざまな要素が含まれる。歌舞伎の「見得」のようにスタイリッシュに「決める」ことも必要。回転数だけで勝負が決まることは競技の本質ではない。

さらにパイプが大きくなれば、ビッグエアで見られるような5回転技も出てくるだろう。ただ、それがHPで受け入れられるかは疑問。回転数だけを求めてはスノボの「カルチャー」さえ壊しかねない。今後のHPがどこを目指すのか、ホワイトから王座を継承した平野歩夢の新たな役割でもある。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム 「OGGIのOh! Olympic」)

男子ハーフパイプの競技を終え、ショーン・ホワイト(右)と笑顔で話す平野歩(AP)
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「ゴン攻め」流行語ノミネート 多様性テーマの五輪、受け入れた社会の変容

スケートボードの瀬尻稜(2015年9月28日撮影)

「ゴン攻め」「ビッタビタ」が、再び注目された。4日に発表された新語・流行語大賞ノミネート30語に入ったからだ。東京オリンピック(五輪)スケートボードのテレビ解説で、プロスケーターの瀬尻稜が放った言葉だ。

「カエル愛」「エペジーーン」…。東京五輪・パラリンピック関連は実に9個も選ばれた。五輪の年に関連の言葉が入るのは恒例だが、今回は全体の3分の1と圧倒的に多かった。

30語の中にはあまり一般的ではなく「新語」や「流行語」としては首をかしげたくなる言葉もあったように思う。新型コロナ関連の言葉は昨年多く出たし、経済が止まり、社会が停滞した。言葉も「不作」の年だったのかもしれない。

そんな中で「ゴン攻め」は広く知られた言葉といえる。瀬尻は「いつもの話し方で出た言葉がノミネートされて驚いている」とコメントした。「いつもの話し方」が、スケボーの世界を出れば「新語」になる。

「スケボー語」は多い。五輪採用が決まった直後、大会を見に行った。会場案内には「駅からプッシュ20分」とあった。「プッシュ?」。一方の足で地面を蹴りながらボードで進むことだが、それだけ書かれていても分からなかった。

子どもたちの会話にもついていけなかった。トリック名はもちろんだが「ぐにゃった」とか「まくった」とか意味不明。後から意味を聞き、会話についていくのがやっとだった。

挨拶も同じ。取材対象と会った時に握手をすることはよくあるが、スケボーのあいさつは独特。ハイタッチとグータッチを組み合わせた複雑なものを、子どもから大人までやる。それができないと「仲間」として認められてもらえない。

考え方から言葉、動作まで、すべてがスケボーの文化なのだ。スケボーだけではなく、サーフィンやBMXフリースタイルも同じ。これらのスポーツは、特に独自の「カルチャー」を大切にしてきた。

もちろん、すべてのスポーツに独自の文化があり、言葉がある。柔道では「練習」とはいわず「稽古」。年長者は「先輩」で、指導者は「先生」だ。クラブ育ちの多い競泳やサッカーでは年長者にも「クン」付けが多い。

ただ、競技がメジャーであれば一般的にも広く受け入れられる。スケボーは隔離された世界から五輪によって突然社会に放り出された。だから、社会にとってはその文化が特殊だし、言葉が「新語」になる。

スケボーやサーフィンは五輪採用に際して「我々のカルチャーは守る」としてきた。その1つが言葉だとしたら「ゴン攻め」は、そのカルチャーが一般に受け入れられた証拠なのだ。

東京大会は「多様性」がテーマだった。もし受け取る社会に多様性がなく、寛容さもなかったら「意味が分からない」「解説になっていない」と問題になったかもしれない。批判もされず、ポジティブに受け入れられたのは、社会の変容によるところも大きい。

以前、冬季五輪のスノーボード選手が服装で問題になった。「普段通り」の着こなしをしたのが、批判されたのだ。もちろん、今も選手団の制服で「腰パン」することがいいとは思わないが、もし今大会でスケボー選手が同じことをしていたら、どうだったか。「腰パン」自体がすたれたとはいえ、スノボと同じタイミングでスケボーが五輪入りしていれば、同じことが起こったかもしれない。

スケボーにとってはいいタイミングの五輪採用だった。もちろん、日本選手の活躍は大きいが、受け入れる大会や社会も変わってきている。新しいスポーツの「ゴン攻め」は、まだまだ続きそうだ。【荻島弘一】

(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

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トライアスロン発祥は「ハワイ」 海兵隊員の酒席で「遊び」から「競技」へ

上田藍(2020年11月8日撮影)

「トライアスロンってのが宮古島であるから、取材してこい」。デスクに言われたのは、新人記者時代の1984年4月だった。聞いた事もない競技。「それ何ですか?」。恐る恐る聞くと「自分で調べろ」。ネットなどはなく、会社の資料室や図書館で分かったのは「3種目で争う耐久レース」くらい。不安を抱えたまま、宮古島に向かった。

第1回宮古島大会-。それが、初めてのトライアスロンとの出会いだった。物珍しさもあってNHKが全国中継したが、記者は地元紙くらい。東京からは数えるほどだった。もっとも、今ほどメジャーでない島はお祭り騒ぎ。観光での活性化へ期待は満ちていた。

スイム3キロ、バイク136キロ、ラン42・195キロ。五輪での競技(スイム1・5キロ、バイク40キロ、ラン10キロ)の4倍近い距離に、男女200人以上が挑んだ。8時間以上かけて初代王者に輝いたのは中山俊行(東京五輪強化対策チームリーダー)。新聞には「鉄人1号」の見出しが躍った。

「限界に挑戦したい」のは分かるが、これほど過酷な競技をしなくてもと正直思った。しかも、レース後は笑っている。制限時間15時間ギリギリにゴールした選手まで、息も絶え絶えに満面の笑み。自分で自分を追い込み、乗り越えたことを喜ぶ。「この人たち、絶対にMだな」。そんな思いは、今も変わらない。

新しいスポーツ。当時聞いた発祥は「ハワイ」だった。海兵隊員が酒席で「ワイキキ遠泳(3・8キロ)とオアフ島1周レース(180キロ)とホノルルマラソン(42・195キロ)のどれが1番過酷か」でもめたことが発端。「それなら、一度にやろう」というノリで、78年に第1回ハワイトライアスロン(アイアンマン)が行われたという。

実際には70年代初めから米カリフォルニア州で地元のサーファーやランナーを中心に大会をやっていたというが、いずれにしても最初は「遊び」だったに違いない。「競技」というよりも泳ぎ、こぎ、走ることを楽しみ、レース後みんなで健闘をたたえ合うお祭り。相手は常に自分自身だから「順位」よりも「完走」。今でも競技の理念は「完走者全員が勝者」にある。

もっとも、宮古島やハワイのような長距離では、商業的に難しい。何より五輪に採用されない。米国では総距離51・5キロの賞金レースが82年に始まり、日本でも85年10月に長崎・天草で初の51・5キロの大会が日本トライアスロン連盟会長だった長嶋茂雄氏の号砲でスタートした。宮古島のロングに続き、中山がショートでも初代王者に就いた。

「インターナショナルディスタンス」または「五輪ディスタンス」と呼ばれたこの距離で、トライアスロンは2000年シドニー大会から五輪入りする。その後は五輪の中核競技として発展、日本でも国体など各大会が「51・5キロ」で行われるようになった。

ただ、宮古島のような長距離種目も五輪とは別に盛んだ。ロングの世界選手権は94年から毎年開催されているし、ハワイのアイアンマンも毎年開催。国内外で多くのロングレースが行われる。五輪を目指して形を変え、スピード化したが、もともとは自身の限界に挑む耐久レース。根底に流れる競技マインドは、ロングにあるのかもしれない。

22日の日本選手権で五輪挑戦にピリオドを打った女子のエース上田藍(37)は、今後ロングディスタンスにも挑戦するという。「未経験だけらこそ、楽しみです」と挑戦する喜びを口にした。五輪の舞台でトライアスロンの素晴らしさを多くの人に伝えてきた上田が、今度は競技のルーツでもあるロングで魅力を伝えてくれるはずだ。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

中川真依のダイビング

選手も驚く!トーマス・デーリーの「いつも通り」編み物姿/中川真依

演技の合間にプールサイドで編み物をするデーリー(右)

東京オリンピックが閉幕し、また新たにたくさんの歴史が刻まれた。

飛び込み競技でも、玉井陸斗選手が7位入賞という素晴らしい結果を残してくれた。10m個人種目での日本男子の入賞は21年ぶり。これからの飛び込み界を引っ張ってくれるスターが誕生した瞬間だった。

特に決勝では「これぞオリンピック」というハイレベルな戦いが繰り広げられた。しかしそんな中でも、彼はトップ選手に引けを取らない堂々とした演技を披露。弱冠14歳にして、世界中の人の心にその名を知らしめた。

オリンピックでは、まだ1度もメダルを獲得していない日本の飛び込み界。3年後のパリでは悲願のメダルも夢ではないと、期待が膨らんだ。

飛び込み競技は、女子は5本、男子は6本の異なる演技を順番に飛び、その合計点数で競う採点競技。そのため予選では2~3時間という長丁場になることも珍しくない。その時間をどのように過ごすかは選手の自由だ。

今回のオリンピックでは、男子10mシンクロで金メダル、10m個人でも銅メダルを獲得した英国のトーマス・デーリーの過ごし方に注目が集まった。大半の選手が、音楽を聴いたり、座ってリラックスした状態で過ごす中、なんとデーリーは編み物をしていたのだ。ネットやSNSでは、その愛らしい姿や編み物のクオリティーに、大きな反響が寄せられた。

オリンピックという大舞台。4度目の出場である彼にとってはもう慣れた場かもしれないが、その余裕ある姿に、オリンピックを経験している誰もがうらやましさすら感じたのではないだろうか。

正直、私にはその余裕が無かった。オリンピックはもちろん、オリンピック出場のかかった大会でさえ、足が震える始末。その時に毎回「いつも通り」ということの難しさを感じていた。

彼は、観客席から応援するときにも、合間に編み物をする姿がテレビに映っていた。きっと彼にとっては、その姿が「いつも通り」なのだろう。

私にもそういった発想があれば、もう少し余裕を持って世界と向き合えたのではないかと今更ながらに感じている。

今回は、世の中の状況的にも、耳に入ってくるのは温かい応援の言葉ばかりではなかった。ただでさえ大きなプレッシャーのかかるオリンピック。選手は行き場のない感情や、今までにないストレスに、心が折れかけた日々もあったはずだ。

そういったことも乗り越え、大会当日を迎えた選手たち。競技を終えた後の安堵(あんど)の表情や、あふれ出す涙を見て、ここにたどり着くまでの努力や、大きなプレッシャーに耐えてきた背景を感じずにはいられなかった。そして、お互いをたたえ合う姿。スポーツを通して、人間の限界を超える戦いの美しさは、涙なしでは見られなかった。

私もこういう中で戦ってきたのだと、誇らしい気持ちを感じたと共に、この感動こそがスポーツの素晴らしさなのだろうと思った。

私も何度も人から言われたり、自分にも言い聞かせてきたことだが、オリンピックの舞台で戦うこと自体が、本当にすごいこと。メダルを獲得した選手だけではなく、出場したすべての選手が胸を張り、これからの人生を歩んでいってほしいと願っている。

そして、今大会を開催するにあたり、大会関係者の方々や多くのボランティアの方々のご協力があってこそだと、本当に感謝の気持ちでいっぱいである。このような状況下にもかかわらず、いつも笑顔で温かな声援を送り続けてくれる姿に、どれだけのアスリートが救われただろうか。

スポーツは「する側、観る側、支える側」がそろって初めて成り立つものだということを、改めて感じた大会だった。

まもなく、パラリンピックが開幕する。選手にとって、応援の力は想像以上に大きなものとなって心を支えてくれる。引き続き、温かな声援を送り、選手の活躍に期待したい。

(中川真依=北京、ロンドン五輪飛び込み代表)

ピッチマーク

堀琴音、奈津佳姉妹は互いの存在が励み いつか見たい、頂点争う2人の共演

東京オリンピックは取材しなかったけど、取材したことのある選手は特に気になった。ボクシング男子フライ級銅メダルの田中亮明。判定負けした準決勝もグッと来た。サウスポーから前に出た。仕掛けた。3分×3ラウンド、ポイントの比重が高い短期決戦のアマチュアで、熱く前のめりなファイトだった。

地元の岐阜県多治見市の市役所では弟が、テレビ応援していた。元世界3階級覇者のプロボクサー田中恒成。「1回戦から“倒すボクシング”をすると言っていて、その気持ちが大振りにつながったかもしれない。でも、その気持ちだから、ここまで来れた。1回戦からの試合、全部良かったです」と話していた。

19年8月5日、名古屋市の畑中ジムで“兄弟スパーリング”を取材した。兄は東京五輪予選となる11月全日本選手権に向けて。WBOフライ級王者だった弟はサウスポー相手のV2戦に向けて。

「選択肢にプロはなかった。五輪だった。金メダルをというより、アマチュアボクシングが好きなんで」という兄は、弟を「有言実行で世界王者になって、3階級制覇して、5階級制覇を狙ってる。なかなかできることじゃない。度胸がある。勝負事に向いてる」と評した。

「五輪かプロかは高2まで迷ったけど“4年に1度”が待てなかった」という弟は、兄を「ボクシングに取り組む姿勢。1番遠回りの道を歩んで、挑戦し続ける。本当に逃げずに。マネできない。尊敬できます」と評した。

2人を空手から育て、弟のトレーナーを務める父斉(ひとし)さんにスパーの印象を聞いた。「スパーはう~ん…2年ぶりかな」。言葉は素っ気なかったが、うれしそうだった。

果たして2人は「五輪メダリストの兄」と「世界王者の弟」という、とんでもない兄弟になった。

さてコラムの趣旨から思いっきりそれたが、ここからゴルフの話だ。

7月末、有観客開催の楽天スーパー・レディース会場で、2週前のニッポンハム・レディースでツアー初優勝を飾った堀琴音の母貴久恵さんに会った。

「琴音ちゃん、良かったですね」。「ほんまにおかげさまで」。「なっちゃん(姉の堀奈津佳)も喜んでましたなあ」。「ねえ。“あんた、ほんまにわざわざ戻って来んでええから。練習しとき”て言うたんですよ。そやのに“いや、行く。絶対行く”言うて」-。姉は予選落ちし、開催地・北海道から東京に戻った翌日朝、飛行機で舞い戻り、妹の優勝を見届けた。

3歳違いの姉妹。姉奈津佳は13年にツアー2勝、14年もシードを守ったが、15年に落とした。妹琴音は15年に賞金ランク33位で初シード、16年は同11位、18年にシード落ちした。活躍した時期がズレたまま、ともにスランプに陥った。

18年4月、スタジオアリス女子オープン第2日、堀奈津佳は2年9カ月ぶりの予選通過を決めた。彼女は自分の近況を話しながら、妹に話が及ぶと「琴音の(ツアー)初優勝は絶対に見ます」と言った。貴久恵さんによると姉は過去2度、妹のチャンスにコースまで足を運んだ。三度目の正直だった。

3番、一緒に練習ラウンドする堀奈津佳(左)と堀琴音の姉妹(撮影・柴田隆二)

ツアー優勝を姉妹で成し遂げたのは88年のツアー制施行後、福嶋晃子・浩子に次ぐ2組目になった。互いの存在が励み、刺激になる。堀姉妹の場合、完全復活したと言っていい妹に比べ、姉は20-21年シーズンで出場7試合中、予選通過は1度しかない。まだまだ道は険しいが、楽しみにしていたい。いつか姉妹が優勝争いを繰り広げる風景を。【加藤裕一】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

プレーオフを制して初優勝を決めた堀(右)は、会場に駆けつけた姉の奈津佳と笑顔で記念撮影する(撮影・浅見桂子)

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選手の活躍に心動かされても開催地の実感なし「東京」見えなかった東京五輪

男子マラソンのゴール直前、沿道の人たちの声援に応える大迫(代表撮影)

あなたは「東京オリンピック」を見ただろうか。日の丸を振る選手たち、流れるオリンピック・マーチ、盆踊り…。どれも「東京」を意識した演出だが、なぜか遠くに感じた。海外の大会と同じ。東京と大会の間には「距離」があった。

13年9月の開催決定から8年、多くの人々が頭を使い、汗をかき、準備を進めてきた。新型コロナで延期され、開催の是非まで問われた。ようやく迎えた開幕は、すべての人に「待ちに待った」ではなかった。

街に五輪ムードはない。無観客の上に選手や関係者の行動も制限される。64年東京大会では、外国人が街にあふれた。みな驚いたというが、今大会で見かけるのはコンビニでビールを購入する報道陣くらい。パブリックビューイングは休止され、応援会など人が集まるイベントも中止。緊急事態宣言の中で、五輪ムードは広がらなかった。

日本人の活躍には心動かされた。それでも、選手と一部の関係者を除いて日本で行われていることは忘れられた。会場は多くの人にとって知らない施設。旧国立ならまだしも、今の国立競技場は新設の会場。街が最も五輪で染まるマラソンも札幌開催で、東京に五輪の風は吹かなかった。

選手も揺れた。1年延期で練習も制限され、コンディション調整が難しくなった。さらに、出場に悩む選手もいた。言葉も失った。何かを言えば、良くも悪くも影響が出る。みな慎重になる。インタビューの冒頭は「開催に感謝したい」。感情のまま発言することをためらったのか、五輪恒例の「名言」もなかった。

競技は盛り上がった。柔道の阿部兄妹やレスリングの川井姉妹ら家族の絆があった。金メダルを期待された選手が力を発揮できなくても、新しい力が飛び出した。スケボーやサーフィンなど、新競技がスポーツの新しい魅力を伝えた。それでも、どこか遠くで行われているようだった。

五輪を通して東京をアピールすることができなかった。海外からの報道陣も東京を伝えることを禁じられた。何よりも、人々が会場や街中で五輪に接することが限られた。五輪を感じる場面がなかった。こんなに寂しい五輪開催地が、過去にあっただろうか。

新型コロナの勢いは収まらない。観戦者がいなくても、感染者は増えた。大会が感染拡大に直結したとは思わないが、大会ムードが人々の気持ちに影響したことは否めない。充実感や達成感を得にくい、没頭できない17日間だった。

五輪が終われば話題の中心は新型コロナになる。それでも、2週間後には東京パラリンピックが始まる。「東京」が見えない東京大会。数十年後、今の子どもたちが成長した時、この大会をどう振り返るのか。せめて、大切な思い出であってほしい。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

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たどりついた全選手が勝者、金メダル須崎優衣ら苦難乗り越え特別な五輪舞台

6日、決勝進出を決めガッツポーズで喜ぶ須崎(撮影・パオロ・ヌッチ)

<東京オリンピック(五輪):レスリング>◇7日◇女子50キロ級◇千葉・幕張メッセ

須崎優衣は強かった。これほど一方的な五輪優勝は、今まで見たことがない。もともと、女子レスリングは世界のレベルが高くない。上位にくるのは、いつも似たような顔触れ。とはいえ、準決勝や決勝で勝つのは簡単ではない。それが、テクニカルフォールとは。

乙黒拓は接戦だった。最後まで手に汗握った。危ない場面もあったが、強かった。レスリング最終日に2つの金。女子が増えているとはいえ、計5個で64年東京五輪に並んだ。2人の22歳も、今後が楽しみだ。

と思って勝ち上がりを見ると、ともに戦ったのは4試合だけ。今大会は出場選手数を各階級16人まで絞っているからだ。前回大会は全階級20人前後だったが、大幅に削減。他の競技で種目を増やしながら総選手数を増やさないために、レスリングなどが削られた。

19年世界選手権は乙黒拓の65キロ級出場者が44人。女子は少ないとはいえ、50キロ級が29人いた。五輪の2、3倍の選手が「世界一」を争うことになる。単に勝ち抜くことだけを考えれば、五輪の方がはるかに楽。88年ソウル大会までは世界選手権並みの出場者で、52キロ級の佐藤満は金メダルまで8試合も戦ったけれど、今の五輪は変わった。「選ばれし者」の大会になった。

レスリングに限らず、厳しい予選や多くの試合に臨まなくてはならない世界ランクなどで「出場枠」を争う。今や勝つこと以上に、出ることが大変。今後、さらに競技数や種目数を増やせば、さらに難しくなる。

レスリングの女子や男子の軽量級は日本のレベルが高く、国内の争いが激しくなる。1度は絶望的と思われた須崎は、あきらめることなく代表権を得た。乙黒拓は、リオデジャネイロ大会銀の樋口黎と争って東京大会出場を決めた。レスリングだけではない。多くの選手が国内外の厳しい争いの末に大会に出ている。

今大会参加の1万あまりの選手は、みな厳しい予選やランク争いを経て出場している。さらに、今回は通常とは違う1年の延期もあった。新型コロナで家族や友人を失った選手もいる。競技を続けることが悩んだ選手もいる。心身ともにつらい思いをした選手は多い。それでも、苦難を乗り越えて集まった。「参加すること」に意義があった。

今大会は対戦後に相手とハグしたり、笑顔をかわすシーンが目立つ。それぞれ苦しい思いをし、重いものを背負って出場しているのだろう。それを互いに知るからこそ、認め、リスペクトする。新型コロナ禍で1年延期となった特別な大会にたどりついた選手たち。今大会は特に、出場したすべての選手が勝者なのかもしれない。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

東京五輪敗者の美学

鈴木亜由子「走れることが幸せ」1年延期で立てたスタートライン

<東京オリンピック(五輪):陸上>◇7日◇女子マラソン◇札幌市・大通公園発着

初めて五輪の女子マラソンを走り、19位だった鈴木亜由子(29=日本郵政グループ)は言い訳をしなかった。序盤は先頭集団の後方につけたが、20キロに差し掛かる長い直線で遅れた。最後は力を振り絞り、2時間33分14秒でフィニッシュ。メダル圏から5分半ほど遅れた。

20キロ付近、力走する鈴木(右)と前田(代表撮影)

夕食を済ませた前日午後7時ごろ、関係者に「大事な話がある」と告げられた。一瞬、レースの中止を想像したという。その場でスタートが1時間早まると聞いた。走り終え、影響を問われて言った。

「(コロナ禍で)いろいろな変更がある中で、走れるということが本当に幸せ。1時間早くなった影響は本当に関係なかったです」

土曜日、午前7時、北海道-。今年5月末から毎週、千歳、網走、士別と場所を移しながら本番と同じ条件で40キロ走を繰り返した。普段は米国での高地合宿で仕上げるが、簡単に渡航できない状況。高地にこだわるのであれば、長野も選択肢にあった。北海道を選んだ理由を所属の高橋昌彦監督(56)は「(北海道に慣れ)五輪の特別な感覚を少しでも減らしたい。それに天気がいい。太陽を浴びた方がきつい練習も前向きになれる」と明かした。

1年前の7月は長野にいた。雨が続く中、リハビリで歩く練習を続けていた。20年1月の米国合宿中に右太もも裏を痛めた。帰国後に検査すると、想像以上に状態が悪かった。4年前のリオデジャネイロ五輪も左足の違和感で1万メートルを棄権。5000メートルは予選落ちし「最高峰の舞台なのに、自分がいる感じがしなかった」。2度目の五輪にも暗雲が垂れ込めた。

3月、五輪の1年延期が決定。結果的に追い込まれていた心は救われた。高橋監督は「今思えば、ぞっとする」。再び走り始めたのは8月、延期がなければスタートラインに立てなかったかもしれない。

五輪切符をつかんだのは19年9月。そこから2年間、代表の重圧を背負い続けた。レース前夜に決まったスタート時間変更。3カ月かけた準備と違うことが起きても、走れることが幸せだった。「(上位とくらべ)力不足を痛感しました。でも、1歩1歩諦めずに、練習してきたことを信じて、最後まで走り切れたかなと思います」。感謝の思いを込め、深々と頭を下げた。【松本航】

19位でゴールした鈴木(代表撮影)

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ひどすぎる負け方 でも68年と今は違う 「1チーム2カテゴリー」活かせ

日本対メキシコ メキシコに敗れピッチで号泣する久保(手前左)(撮影・河野匠)

<東京オリンピック(五輪):サッカー・日本1-3メキシコ>◇男子3位決定戦◇6日◇埼玉スタジアム

あの強い日本代表はどこに行ったのか。ひどすぎる負け方だった。53年ぶりの銅メダル獲得を期待したサッカーの3位決定戦。開始直後からおかしかった。疲れからか体の動きが重く、キレがなかった。集中力に欠け、ミスも連発した。PKで先制点を献上し、その後もゴールを許した。途中出場の三笘が1点を返したが、あまりに遅かった。

疲れはあっただろう。延長まで120分を戦った準決勝のスペイン戦から中2日。メキシコも準決勝はブラジルとPK戦まで戦っているが、準々決勝まで含めれば消耗度が違っても無理はない。キックオフが2時間早まり、暑さもあっただろう。これだけ疲れが可視化されることも珍しい。

準決勝に敗れたショックも残っていた。金メダルを狙ったチームだけに、3位決定戦に集中できないのは分からないでもない。もともと「3位決定戦」はサッカーに合わない。W杯ではメンバーを大幅に入れ替えるし、ノーガードで打ち合うこともある。「廃止論」は大会のたびに起こる。

68年メキシコ大会でも、3位決定戦前に選手は闘志を失っていた。準決勝でハンガリーに0-5と大敗。中1日の試合が続き、心身ともに疲れ切っていた。攻撃の中心だった杉山隆一氏(80)は「3位決定戦なんて、どうでもいいと思っていたよ」と振り返る。

ところが、特別コーチだった西ドイツのクラマー氏がゲキを飛ばす。「次に勝ってメダルを持ち帰ろう。歴史をつくろう。銅メダルもいい色だぞ」。選手たちは最後の力を振り絞り、メキシコに勝利。疲れ切ってベンチに倒れ込むと、クラマー氏は「大和魂を見た」と言ったそうだ。

結局、メキシコの銅メダルを超えるどころか、並ぶこともできなかった。12年ロンドン大会と同じ4位。帰国時、メダリストと離れて寂しく飛行機を降り、銀座のパレードも蚊帳の外だった9年前。メダルの重さを知る吉田や酒井は若手を鼓舞し続けたのだろうが、結果的には再び悔しい思いをすることになった。

ただ、将来を考えれば落ち込むことはない。68年は銅メダルを獲得したが、先に続かなかった。出場を目指した70年W杯は、予選敗退。「東京五輪前から同じ選手で長い間強化してきたから、銅メダルをとって終わりだった。先にはつながらなかった」と68年組の横山謙三氏は振り返った。

今回は、五輪4位のチームの多くがW杯予選へと進む。すでにA代表の主力になっている選手はもちろん、この経験でA代表に入ってくる選手もいるはず。森保監督のもと「ワンチームツーカテゴリー」で強化してきた成果が出るかどうかは、今大会だけでは分からない。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

日本対メキシコ メキシコに敗れ号泣する久保(手前)に声をかける吉田(撮影・河野匠)
ピッチで涙する久保(右)に声をかける酒井(撮影・河野匠)
Tokyo eye

山本博氏“新しい時代”メダリストに求められる振る舞い伝えたい

アーチェリー男子団体 銅メダルを獲得した(左から)古川高晴、河田悠希、武藤弘樹(AP)

東京五輪の試合は、スマートフォンを活用して観戦する機会が多いです。これまではテレビに頼っていましたが、今回はネット配信の中継を観る機会が少なくありません。日本が2つのメダルを獲得したアーチェリーの試合も、スマホで観ました。五輪も、観戦方法も、新しい時代に入ったということでしょう。

アーチェリーは複数メダルを獲得しましたが、特にうれしかったのが男子団体の銅メダル。この種目のメダルは初めてで、日体大の教え子の河田(悠希)選手がやってくれました。選手村入村前に日体大を訪れ「これからピークに持っていき、メダルを取ります」と宣言しました。再会したら今後の人生でメダリストに求められる振る舞いについて伝えたいと思います。

新型コロナウイルスの感染拡大が収まらない中、今夏に五輪を開催するなら、無観客開催しかないと思っていました。中止は選手たちにとって酷だと常々訴えてきました。とはいえこの世界的イベントを、観客抜きで開催するのは本当に残念でなりません。

選手からはSNSを通じてファンの応援を感じたという声が多く聞かれました。私も使っていますが、いろんな人の声を手軽に知るツールとしてSNSは非常に便利です。一方で誹謗(ひぼう)中傷の書き込みも絶えません。卓球の水谷隼選手や体操の村上茉愛選手が被害を打ち明けました。SNSがこれほどクローズアップされる大会は過去にありませんでした。

相手の気持ちを考えずに思ったことを吐き出す人が多いのは残念ですが、昭和の時代にも大勢いたように思います。居酒屋などに集まって悪口を言っていたのが、今はSNSで拡散されて可視化される。私も過去に被害に遭いました。当時は人気選手に対する中傷は有名税のようなものだと周囲からも言われ、気にせず付き合ってきました。

ただ、度を超えた脅迫など犯罪に直結する行為は厳正に対処してほしいです。日本オリンピック委員会(JOC)も対応に乗り出すとの報道がありました。規制がなかなか難しい中、早いアクションが必要です。処罰される「実例」が出ることで、そんな投稿がなくなることを願います。

こうした問題が目立つのも、五輪がナショナリズムを刺激する側面が強くなっているからだと思います。国別のメダル獲得数をランキング形式で発表するのは、国家間の競争をあおる一因になっています。鍛え抜いた肉体を駆使して、アスリートが最大限のパフォーマンスを披露する。そして、国のしがらみを忘れて互いの健闘をたたえ合う。これこそがスポーツの意義であり、五輪のもたらす大きな役割です。

ボランティアの皆さんや医療従事者の方々、警備対応の警察官など多くの人たちが関わっていることに選手は感謝し、大会を終えてほしいです。

◆山本博(やまもと・ひろし)1962年(昭37)10月31日、横浜市生まれ。日体大3年時に出場した84年ロサンゼルス五輪で男子個人銅メダルを獲得。20年後の04年アテネ五輪で同銀メダル。23年パリ五輪を目指すため、昨年8月に指先のしびれなどを引き起こす「胸郭出口症候群」の修復手術を受けた。現在は日体大教授や東京都体育協会会長を務めながら競技を続けている。

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「誰もやったことがない」平野歩夢の「チャレンジ」はスケーターらしい挑戦

スケートボードパーク男子予選、3本目の演技を終えて笑みを浮かべる平野(撮影・河野匠)

「チャレンジ」。平野歩夢の口から何度も出た言葉が、競技が終わった後も繰り返された。スノーボードで圧倒的な地位を築きながら「失うものはある」とリスク覚悟で東京大会を目指した。「誰もやったことがないから、挑戦したい」という言葉を聞いて「スケーターらしい」と思った。

サーフィン、スノーボード、スケートボードは「兄弟」と言ってもいい。パーク女子銅メダルのスカイ・ブラウン(英国)が「パリ五輪はスケボーとサーフィンで出場を目指す」と言ったように、両方やる選手も多い。ただ、トップレベルとなると簡単ではない。

冬季五輪で平野と争った米国のショーン・ホワイトは早々とスケボー挑戦を表明したが、米国の厚い選手層に阻まれ断念。スノボのハーフパイプに似たバート(バーチカル)種目ならXゲームで優勝しているが、動きがまったく違うパークでは力が出せなかった。

平野もバートなら得意だっただろうが、パークでは苦戦した。挑戦を表明した後、初の大会出場となった19年3月の日本オープンで3位。エアの高さは圧倒的で「540」も決めていたが、横の動きやボウルの縁でボードを滑らせるトリックはまだまだ。父英功さんでさえ「そんなに簡単じゃないですよ」と「二刀流」の成功には懐疑的だった。

ところが、その後は急成長した。見る度にライン取りが巧みになり、スノボにないグラインド系のトリックも完成度を増した。「すごく良くなった」と日本代表の西川監督も驚く成長ぶり。五輪ランクは24位、1カ国3人で換算すると15番目。開催国枠ではなく、堂々と出場を決めた。

スケボーでは、独創性が重視される。誰もやっていない技、誰も乗らないルート、誰も使わないセクション…、それが評価される。人と同じことを嫌い、個の自由を重んじる。それも、横乗り系の特色なのだ。

初めてスケートボード日本代表を組んだ18年アジア大会の時、選手団ユニホームを着て選手は戸惑った。選手村で団体行動を強いられ「監獄みたいだった」と言った選手までいた。

選手の取材で困るのは、名前の読みが難しいこと。歩夢は知っていたけれど、心那、碧優、椛、楓奈、碧莉、空良、勇貴斗…。今大会の代表で、すぐ読めたのは雄斗とさくらぐらいだ。どれも「人と同じではない」名前。両親がスケボー好きと聞いて、納得した。

多くの場合、人と同じことをやるのは楽だ。流されていればいい。しかし、平野はあえて困難な道を選んだ。誰もやっていないスノボとスケボーでの五輪出場は果たしたけれど、リスクはこれからで、準備期間が短い不安がある。来年2月の北京冬季五輪まで半年。今度の雪の上で、平野の滑りがみたい。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

◆超一流、みんな記念すべき初の五輪代表です◆ 心那、碧優、椛、楓奈、碧莉、空良、勇貴斗。ここな、みすぐ、もみじ、ふうな、あおり、そら、ゆきと

東京五輪敗者の美学

歯医者目指す敗者の美学と信念 全盛期に引退金井大旺「1点集中で次の道」

男子110メートル障害準決勝2組、8台目で転倒する金井(左)。右はフランスのマンガ(撮影・江口和貴)

<敗者の美学>

<東京オリンピック(五輪):陸上>◇4日◇男子110メートル障害準決勝◇東京・国立競技場

壮絶な形で集大成の東京五輪が終わった。今季限りで引退し、歯科医を目指す意向を示している陸上男子110メートル障害の金井大旺(25=ミズノ)は終盤で無念の転倒。26秒11(追い風0・1メートル)で準決勝2組8着だった。同種目で日本勢初の決勝進出も期待されていたが、かなわなかった。

悲劇はハードル8台目。右のレーンの選手と腕が接触し、バランスを失った。必死で越えようとしたが、足が強くぶつかった。耐えきれず、視界は大きく揺らいだ。ライバルの背中が遠のく中、前のめりに倒れた。手と膝はトラックに付き、四つんばいに。「真っ白になった」。法大3年以来、5年ぶりの転倒だった。

「挑戦が終わってしまったな」。いろんな感情が駆け巡り、立ち上がった。「離脱の選択肢はなかった」。勝負は決していた中でも、最後まで雄姿を見せることが支えてくれた人への感謝を示すことでもある。ゴールを目指し9、10台目を跳び越えると、無観客の国立競技場に拍手がわいた。そして走ってきたレーンの方を振り返った。「次の挑戦はないんだな」。深々と一礼した。取材エリアでは20秒沈黙。頭と心の中を懸命に整理していた。

今季で競技人生を終える。北海道・函館の実家の歯科医院を継ぐべく、歯科大への入学を目指す。函館ラサール高出身。昔は陸上の実力が足りず、五輪に出るなどみじんも考えていなかった。「人に感謝される仕事である医療従事者になりたい」との思いが強かった。

ただ、4月に13秒16の前日本記録をマークするなど全盛期。家族からも「続けていい」と言われている。引退は今でなくてもいいのではないか? 「区切りを決めているからこそ、毎日に全力を尽くして今がある。区切りがなかったら、先延ばしにして、出し尽くせなくなる。1点集中で次の道に進む」。その言葉に金井の美学と信念が詰まる。

試合後、あらためて聞かれた。陸上で再挑戦する気持ちはないか? 「チャレンジすれば、決勝にいけるかもしれないが、この挑戦のためだけにやってきた。最初で最後と決めたからこそ今がある」。自己記録の倍の時間がかかって走りきった集大成のレース。やり切った表情だった。【上田悠太】

男子110メートル障害準決勝2組、転倒し8着でフィニッシュした金井(撮影・江口和貴)
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「国も順位もなし」がスケボーの常識 このカルチャーで「五輪が変わる」

女子パーク決勝の演技を終え、抱えられる岡本(右から2人目)

<東京オリンピック(五輪):スケートボード>◇4日◇パーク女子決勝◇有明アーバンスポーツパーク

岡本碧優(みすぐ、15=MKグループ)は最終3本目も果敢に難トリックに挑戦し、失敗して泣き崩れた。駆け寄ったのは直前まで決勝を戦っていた各国の選手たち。他国の選手たちに肩車された岡本の表情から笑みがこぼれた。関係者から大きな拍手が送られた。

スケートボードならではの光景だった。選手は1本滑り終わるたびに他の選手とハイタッチし、抱き合った。高度なトリックが決まるとボードをコンクリートにたたきつけて喜び、歓声をあげる。心からスケートを楽しみ、笑顔で滑る。新しい五輪の風景は、テレビを通して伝わった。首をかしげる人もいただろう。しかし、多くの人にはポジティブにうつったはずだ。

スケートボードに国境はない-。もともと国という意識は薄い。プロツアーでも、Xゲームでも、選手は個人で参加する。国歌もなければ国旗もない。国を意識することもない。

実際、多くの選手が米国で滑っている。米国の市民権も持っている。五輪に出場するため祖父母などルーツがある国の代表として出ている選手も多い。スケボーやサーフィンでは「米国代表選手が東京大会に出るために自分のルーツ探しをしている」という話も聞いた。

6年前、スケートボードが東京五輪の追加種目候補になった会見に、堀米雄斗と瀬尻凌が並んだ。「好きな選手は?」という記者の質問に「ナイジャ・ヒューストン」。記者が「どこの国の選手ですか?」と聞くと、2人は顔を見合わせて「知りません」。それがスケボーの常識なのだ。

スケートボードに順位はない-。より上位を目指すのがスポーツだが、スケーターにその意識は薄い。もちろん、結果としてのメダルは求めても、最終目標ではない。岡本は金メダル狙いで大技をやったのではという質問に反論した。「目標は金メダルではなく、自分のルーティンをすることでした」。だから、仲間たちは挑戦をたたえた。

大会で、ある選手が大技に挑んだ。失敗して滑走を終えると、他の選手たちが「もう1度」とばかりにボードを慣らす。観客も呼応して歓声をあげる。再度大技に挑戦して失敗、さらにもう1度…。5度目くらいで成功すると、優勝者以上の拍手と歓声が起きる。もちろん、競技は中断したままだが、オフィシャルもやめさせようとはしない。不思議そうに見ている記者に「これ、普通ですよ」と関係者が耳打ちしてくれた。

国も背負わない、順位にも捕らわれない。それが、スケボーやサーフィン、BMXフリースタイルなどエクストリームスポーツのカルチャー。国を背負って順位を争う五輪の仲間入りすることで、本質が失われることを危惧する声は今もある。国際サーフィン連盟のアギーレ会長は笑いながら言った。「我々のカルチャーは変わらない。五輪が変わるんだ」。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

ピッチマーク

松山英樹、シャウフェレらが必死に… ゴルフ界の五輪重要度が増す可能性

松山英樹(2021年8月1日撮影)

東京五輪の男子ゴルフが終わった。各選手がさまざまな思いを抱えながらメダルを目指して戦う姿を見て、今後のゴルフ界における五輪の重要度が増してくる可能性を感じた。

体調が万全でない中で奮闘した松山英樹の姿はもちろん、ここぞという場面でみせるコリン・モリカワのベタピンショットや、最終18番のバーディーパットを外し、膝に手を突いて悔しがるロリー・マキロイの姿。銅メダルをめぐってもつれた7人でのプレーオフ。松山やモリカワらメジャー覇者を押しのけて潘政■(■は王ヘンに宗)(台湾)が銅メダルを勝ち取った結末にもドラマがあった。

今回の戦いを見て、「1度は五輪に出てみたい」と思った選手も多いのではないだろうか。個人的に最も印象に残ったのは、スロバキアのサバティーニが最終日の18番でバーディーパットを決めてみせたガッツポーズだった。61というスコアをたたき出し、一気にまくって2位で銀メダルを獲得。まだ優勝を争うライバルたちが数ホールを残す段階で、何かを確信したかのように拳をあげ、キャディーを務めた妻と喜び合う姿は印象的だった。

もともとサバティーニは南アフリカ出身。スロバキアのゴルフ界を盛り上げるため、19年に妻と同じ同国の国籍を取得。試合後は「このコースで10アンダーを出せるとは思っていなかった」と驚きながらも「ここでメダルを獲得することがスロバキアのゴルフ界、特にジュニアゴルファーの育成に良い影響を与えられることを願っている」と語った。

ゴルフは第2回大会の1900年パリ五輪と第3回の1904年セントルイス五輪で開催されて以降は長らく競技から除外され、2016年リオデジャネイロ五輪で112年ぶりに復活。今の選手たちは五輪で開催されるゴルフを見て育っていないため、大会の価値を見いだせない選手がいるのも不思議ではない。だが、今大会で分かったように、母国のため、家族のためにメダル獲得を目指す選手がいることも確かだ。優勝したシャウフェレ(米国)も、交通事故で陸上十種競技の五輪選手への道を断念した父への思いを明かしており、金メダル獲得後、「父のために勝ちたかった。言葉が出ません」と感無量の思いを語っていた。

やはり五輪の影響力は大きい。日本でも男子ゴルフはNHKと民放で同時に長時間放映される日があり、普段ゴルフを見ない視聴者にもその魅力は届いたはずだ。新競技のスケートボードやサーフィンが注目されたように、まだ競技復帰間もないゴルフも、五輪効果でさらに人気が押し上げられる可能性もある。

4日からは女子ゴルフが始まる。男子以上に世界ランキング上位選手が軒並み名を連ねており、ハイレベルな戦いが予想される。日本からも実力的には遜色ない畑岡奈紗と稲見萌寧が出場する。男子で惜しくもかなわなかったメダル獲得を果たし、最高の形で締めくくれることを期待しながら応援したい。【松尾幸之介】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

ザンダー・シャウフェレ(右)と松山英樹(2021年8月1日撮影)
伊藤華英のハナことば

競泳にもメンタルケアの必要性が明確になった/伊藤華英

<特別編:東京オリンピックを振り返る>

東京オリンピックの競泳は1日に終了し、日本代表は金2、銀1、入賞9という結果だった。オリンピック2大会出場の伊藤華英さんに今大会を振り返ってもらった。

    ◇  ◇

-今大会の結果については

伊藤 予想外ですね。松元克央選手、佐藤翔馬選手ら金メダル候補といわれた選手たちがメダルに絡むこともできなかった。タイム的にすごく速かったというわけでもなく、オリンピックという大舞台の勝負に負けた印象です。

個人メドレー2冠の大橋悠依(右)と200メートルバタフライ銀メダルの本多灯

-大橋が金メダル2個の大活躍だった

伊藤 本当に彼女と本多選手(200メートルバタフライ銀メダル)に救われましたね。大橋選手は「ラッキーだった」と話していました。直前まで調子が上がってこなかったので、良いか悪いかどっちに転ぶか分からなかった。タイムも自己ベストではないんですが、見事に勝ち切りました。

-印象に残った選手は

伊藤 池江選手は最後に決勝レースを泳げてよかった。メドレーリレーは彼女がいたから五十嵐選手も頑張れたし、渡部選手も救われたのではないでしょうか。パリ大会を目指すと思いますが、今大会の経験で方向性が決まればいいですね。それと萩野選手ですが、200メートル個人メドレーで6位は立派。昨年までの状態を考えると、よくここまでもってこられたなあと元日本代表チームの仲間としては感動しています。

男子200メートル個人メドレーで6位の萩野公介(右)と4位の瀬戸大也

-特殊な状況下という影響は

伊藤 平井コーチも話していましたが、代表選手全員がそろう合宿がこれまでに比べて少なかった。選手それぞれで強化しているケースが多くて、チームとしての一体感を持ちにくかったかもしれません。一人で抱えるものが大きいとメンタル的な問題も出てきますから。

-今後に向けては

伊藤 競泳の世界にも変化のときが来たかなと思います。メンタルのサポートを充実させていくべき時期です。金メダルを獲得したソフトボール代表は、メンタルトレーナーを常に帯同させていました。一部のコーチが選手のメンタル面もケアするのではなく、役割を明確にした人材が必要だと思います。

為末大学

【コラム】知ってしまうことで失われるもの/為末大学

五輪シンボル

五輪で注目されていた選手の敗退が続いています。改めて五輪はそう簡単な場所ではなく思い通りにいかないなということを実感します。一方で、初出場の選手や、今大会で急に注目された選手が活躍している例があります。

私の経験では、五輪という場所は知らないか知り尽くすか、どちらかが最もパフォーマンスが良いと思っていました。知り尽くす方はなんとなく分かると思いますが、知らないメリットはどういう部分にあるのでしょうか。

人間は複雑な作業を行う際に報酬が大きいほど、また失うものが大きいほど、パフォーマンスが下がるという性質があります。大きな報酬と損失が重圧の正体でもあります。五輪というところは不思議なところで、それが名誉だと感じる人にとってはとてつもない場所ですが、そう感じなければただのスポーツ大会です。競技人生を長く生きていくと、「あぁ五輪というのは社会にとって特別な場所なんだな」ということが刷り込まれていきます。それはある意味で五輪のマーケティングがうまくいっているということでもあります。一度そうなると、選手にとってもうそこはただのスポーツ大会ではなくなり、報酬も損失も大きくなります。

選手が最もパフォーマンスが良い状態は、今に集中しているときです。競技歴が長くなるといろんな経験を積むことができます。五輪も数度出場すると開会式から閉会式まで、また世間の反応も予測がつくようになり、そうすると、こうなればこうするという風にシミュレーションしやすくなります。一方で、それは何が起きるかを常に考えるという意味でもあり、未来にとらわれやすくなるということでもあります。

五輪を知らない選手は戦略的には未熟でも、今この瞬間に思い切り力を出すことができます。もう少し端的にいえば、五輪を知らない選手は思い切りがいいです。後先考えず思い切ってプレーする時、大半は自滅するのですが、その中のひと握りがそのまま力を出し切り続けてしまうということがあります。初めての五輪にはこれがあります。

選手同士は何度も対戦をしていくと、徐々に自分の力量と相手の力量がわかっていきます。その差を埋めるためにいろんな戦略、作戦を考えるわけですが、人間は不思議なことに相手を知り、自分を知りすぎると、自分自身の位置を自分から固定するようなところがあります。「自分とはこういう選手である」と決め過ぎてしまうのです。そうなると予測が正確になる一方で、ありえないような伸びを想像できなくなるし、想像できないので実現できなくなります。こうして選手は徐々に安定を手に入れ、代わりに自分の地位を固定させていきます。それは結果の安定を生みますが、驚くような結果は出せなくなるということでもあります。

初めて五輪に出る選手の特徴は、五輪を知らない、未来を予測しない、自分を決めてないという3つだと申し上げました。今大会は、このような新鮮な気持ちで挑んだ選手たちの躍進が多いと感じています。【為末大】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「為末大学」)

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今大会は「きょうだい五輪」 阿部兄妹に続き「金」挑むレスリング川井姉妹

スウェーデンのヨハンソン(左)を攻める川井友(撮影・パオロ ヌッチ)

レスリングの川井姉妹が「姉妹で金」へ1歩近づいた。62キロ級の妹友香子が、4日から始まる57キロ級姉梨紗子の前で決勝進出を決めた。「2人で金メダル」と何度も繰り返していた姉妹の東京五輪が始まった。

今大会、レスリングは女子の川井姉妹だけでなく、男子フリースタイルの乙黒兄弟もメダル獲得が期待される。これまでも、レスリングは兄弟、姉妹で活躍する選手が多かった。4連覇の伊調馨の姉千春は銀メダルを2個獲得。湯本健一と進一の兄弟はともに銅メダルだったが、2組のきょうだいが出るのは初めてだ。

レスリングだけではなく、今大会はきょうだいが多い。ともに金メダルに輝いた柔道の阿部兄妹、ホッケーの永井は姉、妹、弟の3人で出場した。フェンシングの東姉妹、バレーボールの石川兄妹…。その数は11組、何と23人もがきょうだいで日本選手団に名を連ねた。東京大会は「きょうだいの五輪」でもある。

新型コロナで行動が制限され、日本国民、いや世界中の人たちが苦しんだ。感染拡大防止のために外出が制限され、ステイホームを強いられた。家族と過ごす時間が長くなった。毎日顔を合わせる中で、家族について考えることも多くなった。多くの場合、その絆はより深くなったはずだ。

アスリートも同じ。施設が閉鎖され、練習ができなくなった。チームメートやコーチと会うことも制限された。活動できず、実家に帰る選手も多かった。そんな中で、きょうだいは大きな支えになった。「東京五輪出場」という同じ目標に持っていれば、その関係はより深くなっただろう。

阿部詩は、自粛中の練習を振り返った。「毎日お兄ちゃんと走ったり、トレーニングをした。あんなに長い時間一緒にいたのは初めて」。ともに日体大で練習しているが、男女は別。普段は一緒に汗を流すことはない。だからこそ、自粛期間は貴重だった。兄一二三が代表に内定していなかったため「2人で金メダル」は口にしなかったが、一緒にいるだけでお互いの思いは通じていたという。

互いに励まし、支え合ったからこそ、大舞台にたどりついた兄弟、姉妹…。もちろん、アスリートを見守る家族の存在も大きい。両親の影響で同じスポーツを志したきょうだいも多い。「きょうだいの五輪」は「家族の五輪」でもある。

兄弟、姉妹が多いのは、偶然ではないと思う。人々の意識も「家族」に向いたから、見ていても感情移入しやすくなる。残念なのはアスリートの家族が直接応援できないこと。「家族の五輪」なのに…。川井友香子の決勝は4日、梨紗子は5日。もうすぐ「きょうだいの目標」「家族の夢」ががかなう。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

スウェーデンのヨハンソン(左)に判定勝ちし一礼する川井友(撮影・パオロ ヌッチ)
Tokyo eye

清水宏保氏「悔いなくやりきってほしい」桃田賢斗選手の姿に自分重ねる

7月21日、公開練習に臨むバドミントン男子シングルス日本代表の桃田(撮影・江口和貴)

思うような動きができない。そんな歯がゆさが伝わってきた。

バドミントン世界ランキング1位の桃田賢斗選手が1次リーグで敗退した。昨年1月、マレーシアで交通事故に遭い、右目の眼窩(がんか)底骨折と全身打撲の大けがを負った。事故から1年半。まだ万全にはほど遠かったのではないだろうか。

桃田選手の姿を自分に重ねていた。大事故に見舞われたことがある。ソルトレークシティー五輪前年の2001年10月、合宿先カナダ・カルガリーでのこと。車で練習会場に向かう途中で、左折した時、対向車が猛スピードで突っ込んできた。座っていた助手席は完全に大破。たまたま後部座席に逃げ、九死に一生を得たが、その後、深刻な腰痛に苦しんだ。

その後、1カ月間は動けず、寝たきりの状態。だましだまし痛み止めの薬と注射を打ちながら、大会に復帰した。だが、普段できたことができない。見えない糸をたぐり寄せるような思いで、幼少期から培っていた感覚を呼び戻したが、それも限界がある。当然、精神面も不安定になる。「もうだめだ」「逃げたい」との思いを振り切る日々で、周囲に当たってしまうこともあった。結局、心身ともに完璧な状態で本番を迎えることはできず、ソルトレークシティー五輪では(98年)長野五輪に続く男子500メートルの連覇を逃した。

自分は事故の影響だけだったが、今回はコロナ禍も加わる。五輪反対の声も多い中、割り切って集中することは簡単ではない。そんな迷いは、桃田選手にとって、さらに重荷になったろう。事故とコロナ禍で、昨年は8試合しか実戦を積めなかったと聞く。例年90試合程度をこなすだけに、試合勘は戻らない。試合中の桃田選手の目は、かつてのような鋭いまなざしではなく、優しさすら漂った。本来の闘争心も、最後まで戻らなかったのではないか。

桃田選手の心中を察するとやりきれないが、このままでは終わってほしくはない。自分が交通事故にあったのが27歳で、その後36歳まで現役を続けた。肉体が年齢の限界にぶち当たっても、精神的にやりきったと思わないとやめられなかった。桃田選手はいろいろな問題を乗り越え、競技への真摯(しんし)な姿勢や人間性も評価されてきていたように感じる。桃田選手を見て、バドミントンを始めた子供も多い。まだ26歳。背中を見ている子供たちのためにも、悔いなくやりきってほしい。これからの桃田選手に注目したい。

◆清水宏保(しみず・ひろやす)1974年(昭49)2月27日、北海道帯広市生まれ。白樺学園高-日大。五輪は94年リレハンメルから06年トリノまで4大会連続出場。98年長野大会500メートルでスピードスケートでは日本勢初の金、1000メートル銅、02年ソルトレークシティー大会500メートル銀。世界距離別選手権500メートルで5度の金。10年に現役引退。現在は札幌でトレーニングジム、整骨院、高齢者向けのリハビリセンターを経営している。

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「水球を変える」強い決意で臨んだ五輪 世界驚かせたリスク覚悟の守備戦術

南アフリカと対戦した日本の足立聖弥(AP)

「格闘技じゃない、ボールゲームですよ。そんなこと言われるから、ダメなんですよ!」。水球男子の大本洋嗣監督は「水中の格闘技」という言葉を嫌う。「スピードや技術、戦術もあるのが水球。ただフィジカル勝負だけではつまらないし、飽きられる。ファンが離れ、競技者も減る。未来はないです」。高い理想を掲げ、代表を率いる。

大会も後半になり、敗退して去る選手も増えた。団体球技も、残りチームが減った。水球男子は2日、1次リーグ最終戦で南アフリカに24-9で大勝。37年ぶりの五輪勝利も、1勝4敗の5位で大会を終えた。

「パスライン・ディフェンス」。日本が世界中を驚かせた守備戦術だ。普通は相手の背後でゴールを守るが、あえて前に出る。パスカットを狙うが、通されたらGKと1対1。リスクはあるが、奪えば速攻ができる。高い位置で守るから、攻撃への切り替えで数的な有利もつくれる。実は、超攻撃型戦術でもある。

12年ロンドン大会後に取り入れ、16年リオデジャネイロ大会は32年ぶりにアジア予選を突破して出場。大胆な戦術が、これまでの常識を破った。リオでは全敗したが、欧州の強豪と競り合えるようになった。ワールドリーグ(国別対抗戦)では18年に4位。メダルは射程圏内に入っていた。

今大会も3連敗で早々と敗退が決まったが、いずれも大接戦。今大会で代表を引退する志水は「本当に日本の水球は変わった」と話した。独自の戦術は改良され、完成度を高めた。しかし、新型コロナで試す機会がなかった。「実戦経験不足は不安」と大本監督が話した通りの結果だった。

日本が勝つためにフィジカル勝負を避けるのが当初の狙いだったが、その裏には「脱格闘技」がある。欧州で人気の水球だが「他のスポーツに比べ、戦術的には遅れている」と同監督。サッカーやハンドボールなど他の球技を参考に、取り入れたのが「パスライン・ディフェンス」だった。

かつての世界の女子サッカーは、ゴール前に蹴り込み、フィジカル勝負でゴールを狙うスタイルだった。11年W杯、日本が連動するパスサッカーで頂点に立つと、一気に各国が取り入れた。女子サッカーにパス戦術が浸透し、競技レベルは飛躍的に向上した。

男子のサッカーも、かつては蹴って走るが主。DFとFWは完全分業で、MFが攻守をつないだ。それが全員が攻守に動くスタイルに変わり、守備戦術も高度になった。ミケルス、サッキ、クロップ…。大本監督が理想を追う姿は、そんな監督たちにも似ている。

「ポセイドンジャパン」の海神たちと大本監督の東京五輪は終わった。1次リーグ敗退で大きな注目を集めることはできなかったかもしれない。それでも「日本が水球を変える」という高い志は、これからも持ち続けて欲しい。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

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満足げな選手見て分かった競泳「日本の現在地」 今大会で感じた世界との差

400メートルメドレーリレーで6位だった日本

競泳37種目の大トリ、男子400メートルメドレーリレーで日本新記録が出た。それでも、6位。記録更新に選手は満足そうだったが、寂しさは否めない。04年アテネから3大会連続メダル。「康介さんを手ぶらで帰せない」の名言も生んだが、今大会を象徴するように世界との差を感じた。

100メートルレースで決勝に残れなかった4人がメダリストたちと争うのだから、最初から期待するのは無理があった。4人が決勝を泳ぎ、うち2人がメダルに絡むようでないと、上位は難しい。8位に終わった女子も同じ。満足そうな表情の選手たちを見ていて「日本の現在地」が分かった。

「流れ」が悪かった。初日に金メダル有力と言われていた男子400メートル個人メドレーの瀬戸が、まさかの予選落ち。その後もメダル候補が次々と決勝進出を逃した。大橋の金メダルでも流れは止められず。最後まで日本は苦しんだ。

他の競技でも「流れ」を感じる。メダル量産も期待されたバドミントンはエース桃田の敗退で、まさかの負けが続いた。逆に柔道は初日の金と銀で波に乗り、最終日の団体戦こそ落としたものの、史上最多9個の金メダルを手にした。あまりにも、競技による明暗がはっきりしている。

海外勢も同じ。競泳では米国にいつもの勢いがなかった。ドレセルの5冠などはあったが、金メダルは37種目中11個。常に半分近くを持って行く競泳王国らしくはなかった。逆にオーストラリアは9個と躍進。英国、中国、イタリアも元気だった。こちらも、はっきりと明暗が分かれた。

新型コロナの影響が、ここにも出ている気がする。感染対策で、選手たちは選手村に「隔離」状態。人の接触は制限され、常に同じ国、同じ競技の選手としか顔を合わせない。チーム内の悪いムードは吹き払うどころかさらに深まり、どんどん悪くなっていく。

普段ならレストランや娯楽室、トレーニングルームなどで他国の選手と触れ合い、チーム内の悪いムードを忘れられる。気分転換に選手村外に出て、楽しむこともできる。しかし、今回はルールを破ったら資格剥奪。チーム内の雰囲気を劇的に変えるすべがない。無観客で応援する家族やファンもいない。孤独な戦いを強いられる選手たちが、流れを変えるのは難しい。

新型コロナ禍、延期、感染症対策…。今大会は「特別な大会」になった。それは、選手も同じ。流れに反して金メダルを獲得するには、強い精神力が必要になる。東京大会の金メダリストは、競技力だけではなれないようだ。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

スポーツ百景

競泳5冠達成「怪物」ドレセルが表彰式で取り出した“御守り”の秘密

競泳男子のケーレブ・ドレセル(米国)は本物の怪物だった。自由形とバタフライの個人3種目とリレー2種目を制して5冠を達成した。うち2つが世界新記録。人間離れしたロケットスタートと、高速回転の水車のようなストロークに圧倒された。金メダルは前回と合わせて7つ。まだ24歳。“水の怪物”マイケル・フェルプス(米国)の持つ金23個の五輪最多記録更新も期待させた。

男子50メートル自由形で金メダルのドレセルはガッツポーズ(撮影・鈴木みどり)

レース後の表彰式で彼のある行為に目が留まった。金メダルを首にかけると、ズボンの左ポケットからそっと青と黒の柄のバンダナを取り出して、左の手のひらに巻きつけた。そして、その左手で、受け取った記念のブーケをしっかりと握り締めて国歌を聴いた。どの表彰式でもルーティーンのように繰り返していた。

理由を調べて胸を打たれた。7冠を達成した17年の世界選手権後、高校時代の女性教師が乳がんで亡くなった。人生でもっとも信頼していた心の師でもあった。バンダナはその恩師の愛用品だった。失意の彼に、故人の夫が形見分けしたという。以来、彼はそれを「御守り」として常にレースに携えていた。このエピソードを見つけた時、私の中で、水の中のあの怪物アスリートが、心優しき1人の青年に変わった。

ケーレブ・ドレセルの左手には「御守り」のバンダナ(ロイター)

五輪はこうして時にふと、偉大なアスリートや無敵の王者が人間味を露呈する。それが何とも美しく、胸に迫る。どんな選手も人間に変わりないのだと気づかされるからだ。ドレセルも私たちと同じように何かにすがって、難しい戦いに挑んでいたのだ。世界中の人々が五輪に感動するのは、単に強さや速さだけではなく、そこにかいま見える優しさや、弱さも含めた生身の人間ドラマがあるからなのだと思う。

同じような記憶がある。91年8月に東京で開催された陸上世界選手権。男子100メートルを9秒86の世界新記録で制したカール・ルイス(米国)が、レース後の記者会見で突然、おえつをもらした。「東京の空の雲の切れ目から、きっとパパが僕を見ていてくれたんだ…」。この日、彼は亡き父を心の支えに走っていたのだ。陸上界の巨星が、私たちと同じ等身大の人間に見えた瞬間だった。

91年世界陸上男子100mを9秒86の世界新記録で優勝したカール・ルイス

応援してくれているのはスタンドの観客だけではない。それぞれの人生の中にも大勢いる。そして、時に心の中で観客以上の大きな味方になってくれる。それは無名選手も、金メダリストも変わりはない。前例のない無観客での五輪開催。大観衆も、大歓声もない表彰式で、バンダナを巻いた左手で記念ブーケを持ったドレセルの笑顔を見ながら、そんなことを考えた。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

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柔道「最終日」金メダル締めのはずが…仏は登録人口3倍、裾野広げる必要も

<東京オリンピック(五輪):柔道>◇31日◇男女混合団体◇東京・日本武道館

男女団体決勝で敗れて銀メダルの日本チームは一礼する。奥は歓喜するリネールらフランスチーム(撮影・パオロ・ヌッチ)

「やっぱり最終日よ。最後は金メダルで締めないとな」。7年前、斉藤仁強化委員長は東京開催になった20年五輪に向けて話した。視線の先には男子最重量級があった。全階級を見なければならない立場で、思い切った発言。「絶対に書くなよ」と言われたが、その思いの強さは伝わった。

1964年東京五輪、柔道無差別級を報じる64年10月24日付け日刊スポーツ紙面

64年東京大会、最終日は衝撃的だった。前日まで全3階級を制しながら、最後の無差別級で惜敗。銀メダルも「日本柔道が負けた」と報じられた。半世紀以上前だが、今も語り継がれる東京五輪の「屈辱」。斉藤の頭にもそれがあった。

84年ロス大会では95キロ級を制し、無差別級の山下泰裕に「先輩、明日は頼みます」と「締め」を託した。無差別級廃止後の88年ソウル大会では、総倒れの日本柔道を最後に救った。「最終日」の大切さから重量級強化に力を注いだが、志半ばで15年に亡くなった。

88年ソウル五輪で柔道男子95キロ超級を制した斉藤仁

17年、東京五輪の追加種目に混合団体が決まった。背景には、全柔連の組織委員会への強い推しがあった。山下副会長(当時)らが陳情。「団体戦は人気もあるし、テレビ視聴率もいい。入場料収入も1億円いく」と採用を推した熱意が、IOCにも届いた。

日本は団体戦が盛ん。子どもの頃から慣れているし、戦い方も熟知している。1人が取りこぼしても、他がカバーできる。何より選手層の厚さが力になる。採用決定後、世界選手権全勝。当初は日本が強い軽量級からだったが「早く決着しすぎる」と、対戦順が抽選に変更されるほどだった。

57年前の記憶が刻まれた武道館で行われた今大会。男子最重量級は銀メダルだった。16年リオデジャネイロ大会でリネールに肉薄した原沢は奮闘したが、今大会も頂点に届かなかった。半世紀も前の話で本人には関係ないし、酷かもしれないが、64年の無差別級を今大会の100キロ超級に重ねるオールドファンはいる。屈辱は晴らせなかった。

男女混合団体、決勝で敗れ引き揚げる日本の選手たち。左から素根、ウルフ、向、新井、大野(撮影・パオロ・ヌッチ)

ただ、今大会は「最後」が最重量級の後に用意されていた。64年東京大会から採用された柔道に、20年東京大会で新たな種目が増えた。「これで最後は確実に金メダルだ」と思った関係者もいたはず。実際に、記者もそう思っていた。

それでも、締めは銀メダルだった。世界選手権、アジア大会で金メダル以外とったことのない種目で、初めての銀。選手は全力だった。絶対がないのも分かっている。それでも、日本柔道にとっては屈辱だ。「最終日」が飾れず斉藤は悔しがっているに違いない。怒っているかもしれない。しかし、これも五輪。フランスの登録人口は約50万人、日本の3倍だという。団体戦が「総合力」なら、頂点を高くするとともに裾野を広げることも必要なのかもしれない。【荻島弘一】

◆64年東京五輪ヘーシンク対神永戦 体重無差別級決勝で神永昭夫が世界王者へーシンクと対戦。9分22秒の熱戦は、けさ固めで一本負け。優勝に大喜びしたオランダ関係者が土足で畳の上に駆け上がろうとし、神聖な畳を理解していたヘーシンクは「待て」と制した。柔道は同大会から正式種目に採用。日本のお家芸だった全4階級制覇は達成できなかった。

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何度も聞いた「切磋琢磨」 「高め合う」瀬戸&萩野、リベンジへ3年後五輪

男子200メートル個人メドレー決勝 4位の瀬戸(左)と6位の萩野は笑顔で健闘をたたえ合う(撮影・鈴木みどり)

「切磋琢磨(せっさたくま)して、世界を目指します」。瀬戸がそう話したのは10年前、高校総体の時だった。

高校生には珍しい言葉を使うと思ったが、言い慣れていた。まだ2人ともジュニアレベル。シニアの代表経験もなかったが、いいライバル関係にあることは容易に想像できた。

当時、個人メドレーには世界選手権3位の堀畑裕也がいた。高い壁だと思っていたが、11月のW杯東京大会(短水路)で瀬戸が400メートルで、萩野が200メートルでともに堀畑を破って優勝。「(萩野)公介と一緒にロンドンに行きたい」「(瀬戸)大也と出たい」。17歳の言葉は頼もしかった。

その後の2人の活躍は目覚ましかった。そして、何度も「切磋琢磨」の言葉を聞いた。もちろん、ともに浮き沈みはあった。だからこそ、ライバルの存在が必要だった。高校から日本、世界と争う舞台は変わっても、2人で「高め合う」ことはずっと続いていた。

ただ、五輪については瀬戸が遅れた。萩野が銅メダルを獲得した12年ロンドン大会は選考会直前に体調を崩して落選。16年リオデジャネイロ大会は萩野が金に対して銅だった。リベンジに燃えて絶好調で迎えるはずだった今大会は、まさかの1年延期となった。

世界選手権では、19年個人メドレー2冠など4回優勝。短水路も合わせれば9回も世界一になっている。それでも、なぜか五輪は無冠。早々と代表内定を得た今大会も「優勝候補」と言われながらメダルにさえ届かず。期待した周囲よりも本人がショックだろう。

4年に1回だから、五輪に愛されない選手はいる。何度も世界選手権を制しているのに、五輪では勝てない。逆に五輪だけ勝つ選手もいる。単なる巡り合わせかもしれないが、それでも「五輪の女神」はいる。そう思わせることは多い。

ただ、負け続けるばかりとは限らない。スピードスケート米国代表のダン・ジャンセンは優勝候補として3度の冬季五輪に臨んだが無冠。4大会目の最終レースで涙の金メダルを獲得した。あきらめずに挑戦し続けると、時として「女神」がほほ笑むこともある。

レース後、2人の笑顔は純粋で美しかった。五輪やメダルなど関係なく、ただ競い合っていた小学生のように。これから2人の関係がどうなるかは分からないが「切磋琢磨」は続けてほしい。次の五輪は3年後。チャンスは、意外と早くやってくる。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

男子200メートル個人メドレー決勝 4位の瀬戸(右)と6位の萩野(撮影・パオロ ヌッチ)
男子200メートル個人メドレー決勝 4位の瀬戸(左)と抱き合って健闘をたたえ合う6位の萩野(撮影・鈴木みどり)
東京五輪がやってくる

【復刻】フェンシング機械判定85年の歴史 元日本代表監督が解説

<復刻記事:2021年6月24日>

競技の奥深さや魅力をスペシャリストに聞く「教えて○○さん」第3回は、フェンシング編です。高速の駆け引き、一瞬の突きと斬りが勝敗を分ける競技。その得点を判定しているのは、肉眼ではなく「電気審判器」です。ポイント獲得の仕組みや歴史、試合会場や映像中継を見て疑問に思う点を、72年ミュンヘン五輪で日本代表監督を務めた山本耕司さん(85=東京都フェンシング協会会長)に解説してもらいました。【取材・構成=木下淳】

フェンシングの電気審判器を解説した東京都協会の山本耕司会長(撮影・木下淳)

-フェンシングは五輪種目の中でも珍しい電気審判器が特徴です。いつから採用されているんですか

「エペ、フルーレ、サーブルの順でエペは1936年から導入されています。フルーレは57年、最後のサーブルは88年でした」

-日本代表の対応は

「52年ヘルシンキ五輪から出場していますが、審判器が日本に入る前は遠征先や開催国で、対応の剣や防具を買っていたそうです」

-歴史は

「フェンシングは陸上、競泳、体操とともに1896年の第1回アテネ五輪からある競技です。起源の『決闘』では血を流したかどうかで判定していました。ですので、血も涙もない人は負けません(笑い)。競技になってからは肉眼の審判に不満も多く、強豪国が常に有利とされました。日本は国際大会で泣きっぱなしでしたが、電気審判器の導入で公正さが保たれ、競技人口も増加しています」

3月、GPドーハ大会の決勝で米国のマインハルト(右)と対戦する敷根崇裕。この大会の電気審判器はワイヤレスで腰に受信器を装着し、コードは胴体のメタルジャケットと剣につながっていた(C)日本フェンシング協会

-フルーレとエペは「突き」だけ、サーブルは「突き」と「斬り」の得点が認められています。どう判定しているんですか

「フルーレ、エペの剣先にはボタンが付いているんです。これをフルーレでは500グラム以上、エペでは750グラム以上の圧力で突くと電気信号が反応します。剣が、フルーレは胴体メタルジャケット(通電する有効面の防具)に、エペは全身に、サーブルは上半身に触れればランプが光ります」

フェンシングの剣先。上からエペ、フルーレ、サーブル。フルーレは絶縁体が巻かれている(撮影・木下淳)

-ランプの色は

「赤と緑で、ポイントを取った選手の側が点灯します。フルーレは無効面を突くと白く光ります。サーブルは無効面の下半身に当てると光らない仕組みです」

-エペだけ「同時突き」が認められるそうですね

「20分の1秒~25分の1秒という、わずかな時間の幅で同時に突き合った場合に両者の得点となります」

-剣の刃元のガードや床に当たった場合は

「ピスト(競技コート)の床はアルミ製でアースの役割があり、電気審判器が感知しないようになっています。ガードも同様です」

-剣が折れてしまう場面もたまに見ます

「確かに剣は電子機器が故障したり折れたりすることがあるので、選手は1試合に2本以上を持参しないと試合には出られません」

フェンシングの剣。上からエペ、フルーレ、サーブル(撮影・木下淳)

-電気審判器ということで正確なはずなのに、選手がビデオ判定を求めるシーンもよく見かけます

「判定補助として『ビデオ判定システム』があり、試合の当事者だけが要求できます。特にフルーレは(得点に必要な)攻撃の優先権がどちらにあるか確認するため、よく行われます。2回権利があり、主張が認められれば回数は減らず、認められなかった場合(いわゆるチャレンジ失敗)は要求権を1回、失います」

-審判が選手にカードを提示する場面も見ました

「イエローカードは警告で2枚目がレッドカード。ただ、サッカーのように退場ではなく相手に1ポイントが入ります。フェンシングで退場、失格処分になるのはブラックカードです」

-現在「ネクサスフェンシングクラブ」のマエストロである山本さん。後輩で、男子フルーレ東京五輪代表の敷根崇裕選手(ネクサス)が今年3月のグランプリ(GP)ドーハ大会で銀メダルを獲得した際は、審判器はワイヤレス式(無線)でした。東京五輪では

「コード式(有線)ではなく無線です。受信機を腰に装着し、電極を防具と剣につなぎます。得点するとマスク内蔵LEDが点灯する仕組みです。五輪では04年アテネ大会まで有線で行われ、08年北京大会から無線が導入されています」

 

◆エペ 足の裏まで含む全身が有効面。攻撃の優先権の規定がないため先に突いた方に点が入る。体のどこに剣先が当たっても有効となるため、高身長で腕のリーチの長い選手が有利。

◆フルーレ 胴体が有効面。先に腕を伸ばして相手に向けたり、前に進んだりした選手が攻撃の優先権を得る。相手の剣を払うと優先権を奪い返せる。細かい手先の技術が必要になる。

◆サーブル 胴体に頭部と両腕を含めた上半身が有効面。騎兵発祥で、下半身への攻撃は馬を切る不名誉だったため無効。剣先の突きだけでなく剣身の斬りで触れてもポイントになる。フルーレと同様に攻撃の優先権の規定はあるが、有効面が広いため手先の技術よりスピードが重視される。

3月、GPドーハ大会の準決勝でエディリ(左)から得点する敷根崇裕。ポイントが決まってマスクの緑LEDが点灯した(C)日本フェンシング協会

<バッハ会長も元選手>

国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長(67)はフェンシング出身だ。西ドイツ代表として76年モントリオール五輪の男子フルーレ団体で金メダル。山本さんは、その4年前のミュンヘン大会で6位に入賞した日本代表を監督として率いており、その前後の国際大会では何度も西ドイツと対戦したという。「彼が出てきたのは自分の後のことになりますが、西ドイツとはよく当たりました。上位常連の強豪でしたね」と振り返った。

(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「東京五輪がやってくる」)

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種目倍増した「混合の五輪」止まらないショー化もテレビ観戦にはピッタリ

混合400メートルメドレーリレー予選 レース後笑顔の、左から池江、松元、小西、佐藤(撮影・鈴木みどり)

競泳の混合メドレーリレーは、最高のエンターテインメントだった。「先に男子2人だから、逃げ切るのは難しいぞ」とか「最初が女子だから、男子で追いつくよ」と、見ながら興奮。いまひとつ調子が出ていない日本は予選落ちしたが、十分楽しめるレースだった。

激しい順位変動に、まさかの大逆転。男女2人ずつをどこで使うかはチームの自由だから、戦略を考えるだけでもおもしろい。男女のメダリストが競う「ドリームレース」も実現する。手持ちのカードでバトルをするゲームのよう。応援に力が入り、思わず絶叫。これが、エキシビションではなく正式種目なのだ。

「混合種目」は、今大会の目玉の1つ。競泳や陸上のリレーなど男女が一緒になって順位を争う種目が9も増えた。これまでは、もともと男女の区別なく競技を行う馬術の6種目を加えても9種目。それが一気に倍増した。今大会は「混合の五輪」ともいえる。

IOCが掲げる「男女平等」が背景にある。参加選手数を同じにするためだ。ただ、それだけなら種目数を合わせればいい。あえて混合にこだわったのは「テレビ」を意識したから。若者人気挽回のためスケボーなどの新競技を五輪に「ねじ込んだ」(結果的はよかったが)のと同じだ。

男女が互いに理解し、協力し合いながら勝利を目指す。緊迫感の続く五輪の中で少しホッとする部分がある。もちろん、競技にもよるが、試合中に会話をする選手たちにも笑顔がみられる。以前、卓球世界選手権で吉村が石川の頭を「ポンポン」したように、どこかほほ笑ましい光景もある。

「テレビ受け」を狙った混合種目は「日本受け」もする。選手もファンも、団体やリレーが好き。男女の選手が助け合い、補い合いながら戦う「絆」が、日本人は大好きだ。さらに、日本は強い。競泳が予選落ちし、バドミントンも準決勝で敗れたが、真剣に取り組もうという姿勢がある。

「金メダル確実」と言われるのが柔道の団体。基本的に男女が一緒に練習することはなかったが、混合のために合同でけいこ。チームビルディングのゲームも取り入れ「チームの和」を養った。最初は照れながらやっていた選手も、徐々に慣れる。チームの一体感は今大会の成績にも表れる。

五輪の「ショー化」は止まらない。IOCバッハ会長は「混合種目は五輪に新しい価値を生む」と話したが、同時に単純に速さや強さを競う五輪は衰退するかもしれない。ただ、確かに見ていておもしろいし、新型コロナ禍で強いられるステイホームのテレビ観戦にはぴったり。31日は陸上や競泳、柔道など混合種目が盛りだくさん。家族そろってテレビの前で楽しむにはよさそうだ。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

バドミントン混合ダブルスの準決勝を戦った渡辺勇大(右)、東野有紗ペア(ロイター)
バドミントン混合ダブルスの準決勝を戦った渡辺勇大(右)、東野有紗ペア(ロイター)
トライアスロン カトちゃんのここだけの話

日本の「お手本」ノルウェーが頂点に立った男子トライアスロン/加藤友里恵

東京オリンピックで日本選手の活躍が連日続いている。トライアスロン競技も26日に個人男子、27日に個人女子が終了した。

トライアスロンは自然との闘いでもある。男子のレースは、気温はそこまで高くなかったものの、日本独特の湿度で海外選手はやや苦戦していたようにみえた。女子のレースは打って変わって、台風の影響による悪天候の中での非常にタフなレースとなった。

男子の日本勢はニナー賢治(28=NTT東日本・NTT西日本)が14位。小田倉真(28=三井住友海上)が19位だった。ニナーはスイムから非常に良い位置で展開し、最後のランでも粘った。私が今までみた彼のレースの中で1番良いレース展開、走りだったように感じた。

小田倉はスイムでやや遅れたが、一緒にスイムをあがった選手の中にバイクの強い選手が多く、最終的にはほとんどの選手がひとつの集団となりランへ。得意のランで実力を発揮し、順位を上げた。

金メダルを獲得したのは、前評判の高かったノルウェーのクリスティアン・ブルメンフェルト(27)。彼はどんな時でも決して諦めず、最後まで自分の力を100%出し切れる。人柄も良く、ライバルにも愛される選手だ。

実は日本男子勢はノルウェーと合同練習を行う関係だ。日本代表のパトリック・ケリー・コーチが躍進するノルウェーにアプローチ。2018年12月ごろから、ノルウェー式のトレーニングを用いて力をつけてきた。宮崎で直前合同合宿も行っている。

合宿に参加していた日本選手は「ブルメンフェルトやイデン(今大会8位)は人柄がすてき。とにかくいつも明るくて、トライアスロンを楽しんでいる。プラス、めちゃくちゃ練習熱心」と話していたという。

頂点に立ったノルウェーから、日本はさらに学ぶこともあるのではないか。今後も高みを目指し、世界の強豪と戦ってほしい。

男子日本代表とノルウェー代表の合同合宿

女子は、高橋侑子(29=富士通)が粘りの18位。岸本新菜(25=福井県スポーツ協会・稲毛インター)は途中棄権だった。

高橋はスイムを好位置の10番手であがり、実力者のそろう第2集団でバイクを展開した。非常に天候が悪く、見ているこちらもハラハラするようなレースだったが、彼女は落ち着いていて、貫禄さえ感じた。フィニッシュ後のやり切った表情がすてきだった。

岸本はバイクで落車してしまった。「悔しさと申し訳ない気持ちでいっぱい」と言っていたが、この舞台に立てた経験と悔しさを今後にぶつけてほしい。

女子の優勝はバミューダ諸島のフローラ・ダフィー(33)だった。全競技を通じてバミューダ初の金メダリストとなった。彼女はリオ五輪でもスイム、バイクは非常に強かった。しかし、バイクで足を使い過ぎて、ランまでもたないという課題があった。それをここ数年で克服し、今回は圧巻の走りを見せた。ラン10キロのタイムは33分00秒。トライアスロンは折り返しがあったりするので、実際には32分30秒前後に相当する速さだ。4度目のオリンピックだが、北京大会後に一度競技を離れている。摂食障害などのつらい時期を克服して、また復帰してきた。そんな経験が素晴らしい人柄につながっているのだろう。

男女どちらのレースもフィニッシュ後、互いにたたえ合うシーンにはとても感動した。その姿を見てあらためて感じたのは、スポーツは勝敗だけじゃない、その競技がもたらす喜びや苦悩が人間性を育むのだということだ。引退して振り返ると、喜びや達成感、悔しさや苦悩は、何ものにも変え難い私の財産となっている。

トライアスロンは31日に最終種目の混合リレーが行われる。スピーディーな展開でとても見応えのある新種目。私を成長させてくれたこの競技の新たな歴史が始まることに、とてもワクワクしている。

(加藤友里恵=リオデジャネイロ五輪トライアスロン代表)

スポーツ百景

エレキギターの歩みが示すスケートボードの未来

21年7月26日、東京五輪スケートボード女子ストリートで金メダルを獲得した西矢

1960年代半ば、エレキギターを持つ若者には「不良」のレッテルが貼られた。爆発的なブームは中学、高校生にも広がり、警戒した全国各地の教育委員会は禁止令を発出した。笑い話ではなく実話である。確かに電気のごう音は近所迷惑だったが、エレキを抱えて集う長髪の若者に対する、保守的な大人社会の拒絶反応だったように思う。

東京オリンピック(五輪)のスケートボード競技をテレビ観戦して、半世紀も前のことを思い出した。若者に人気のスケートボードに、眉をひそめる中高年は少なくない。「騒音がうるさい」「ぶつかりそうになった」などの自治体への苦情も多く、「使用禁止」の赤い看板も公園でよく目にする。迷惑行為は論外として、排除の根底には、あのエレキギターと同じ異質なものに対する偏見もあるような気がする。

ストリート種目で金メダルを獲得した堀米雄斗と西矢椛の見事な大技と、自然体でさわやかな振る舞いに、スケートボードへの印象が変わった大人も多かったのではないか。スケボー少年少女たちは社会の変容とともに進化して、洗練されてきたのだ。スケボーに冷たい日本の環境で育ち、よくぞ世界の頂点に立ったものだと感心した。奇抜なファッションも個性豊かで好感が持てた。

20年ほど前、知人の結婚式でギタリストの寺内タケシさんと同席した。「エレキの神様」と呼ばれた日本の第一人者は、70年代から全国の中学や高校を巡る演奏会を続けていた。抜群の演奏テクニックで社会の偏見と対峙(たいじ)し、エレキを魅力的で格好いいものへと変えたパイオニア。「まだ偏見はありますよ」とも話していたが、エレキは市民権を得て、今では誰もが練習できる音楽スタジオが各地にある。

国民が注目する東京五輪でのこの競技の日本勢のメダルラッシュは、国内のスケートボードの認知度を一気に高めた。これをきっかけに競技環境が変わり、日本のスポーツ界に根強く残る体育会特有のあしき体質が変わり、何より若者と中高年に間に高くそびえる認識の壁を取っ払う可能性を秘めている。いつか堀米や西矢がパイオニアと呼ばれる日がくるのだと思う。

一夜明け会見で堀米は「日本はスケートボードが禁止の場所がすごく多い。もっといい環境が増えていったらいいなと思う」と話した。これからブームが起きて、スケボーを抱えた子どもたちが公園に群がるだろう。エレキのときのように排除するのではなく、受け入れる場所をつくる社会になってほしい。それが「多様性と調和」を理念に掲げる東京五輪のレガシーになると思う。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

OGGIのOh! Olympic

「東京五輪の顔」散る「波乱」の大会 違和感「5年」受け入れ満喫したい

鉄棒の予選の演技で落下する内村(撮影・鈴木みどり)

バドミントンの桃田が敗退した。耳を疑った。世界ランク1位で金メダル最有力候補。昨年末には「圧倒的に強くなりたい。東京五輪で金メダルをとって、感謝の気持ちを表したい」と話していた。それが、まさか1次リーグで…。金メダルを期待していたし、とると思っていたので寂しい。

競泳の金メダル候補、瀬戸が大本命の男子400メートル個人メドレーで予選落ち。体操の内村は1種目に絞って挑戦していた鉄棒で落下した。そして、開会式で聖火点火者となったテニスの大坂なおみも、まさかの敗退。「東京の顔」が次々と大会を去った(瀬戸はまだ種目が残っているが)。

大会前に多くの人に期待され、その声に応えているのは阿部兄妹の柔道くらいか。1人で戦う個人種目での「波乱」が目立つ。競泳個人メドレーの絶対女王、ホッスーが2種目で表彰台を逃すなど各国ともに苦しんではいるが、思い入れが強いせいか日本人有力選手の「まさか」が目立つ。

やはり、延期による1年は大きかったのか。金メダル獲得を期待されるのは、いずれも実績のある選手たち。前回の五輪や世界選手権で好成績をあげるなど名前も顔も知られた「ベテラン」が少なくない。体力面だけを考えても、1年キープするのは難しい。なかなか向上は望めない。

さらに大きいのはメンタルの疲弊だ。五輪前になると、有力選手への注目度は増す。地元大会ならなおさら、相当なプレッシャーになったはずだ。ファンやメディアに追い掛けられる時間が、単純に1年延びた。

それだけならまだ良かったが、今回は新型コロナという未知のウイルスも出てきた。開催の是非まで問われる中、選手たちの心は揺れる。それでも、彼らは選手を代表し、競技を代表しての発信を求められる。それが、どれだけの負担だったかは想像もできない。

4年周期で体を作ったきた選手にとっては、ここに合わせるのも難しかったかも。仮に昨年行われていれば桃田の金メダルは確実に近かった。瀬戸も金メダルをとれたはずだ。選手にとって1年は長く、厳しいと思わざるをえない。

ただ、逆に短期間で急成長する若手には、1年の延長はプラス。20年大会には「間に合わない」はずだった選手が「間に合う」。大会がなく勢力図が変わったことに気が付きにくいが、多くの競技で若手の力が伸び、ベテランを上回ったのは間違いない。体操の10代コンビも、この1年で成長して世界に飛び出した。

4年に1度の五輪に慣れているから「5年」には、まだ違和感がある。新型コロナの影響だから仕方ないが、やはり五輪らしくはない。選手でもないのにそう思うのだから、スケボーやサーフィンなど初顔は別にして、選手たちの体が簡単に「5年」に慣れるとは思えない。次は3年後だ。

ただ、まだ大会は始まったばかり。「波乱」は、これからも起きそうだ。有力選手が敗れることがあるかもしれない。それでも、新しいヒーローやヒロインが誕生するのは楽しみ。「5年」を受け入れて大会を満喫したい。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

We Love Sports

3人制バスケ山本麻衣&富永啓生、幼少期仲良く手つないだ2人が五輪で奮闘

3人制バスケットボール女子代表の山本麻衣(左)と同男子代表の富永啓生の幼少期ツーショット(家族提供)

19年前の夏に撮影された、当時2歳の女の子と、1歳の男の子が仲良く手をつないでいるツーショット写真。その2人は2021年、東京オリンピック(五輪)の新種目に採用されたバスケットボール3人制で、いずれも日本代表として奮闘した。1人は女子代表の山本麻衣(21=トヨタ自動車)、そしてもう1人は男子代表の富永啓生(20=米ネブラスカ大)。両選手の母は、実業団の三菱電機でチームメートだった。

  ◇  ◇  ◇

女子の山本は今大会、8試合で37得点をマーク。165センチと小柄な体からスピード感あふれるプレーを繰り出し、1次リーグで全勝だった米国を破った試合ではチーム最多8得点を挙げるなど存在感を発揮した。

19年秋のU23ワールドカップ(W杯)では、日本バスケ界における男女全カテゴリー初の国際大会優勝に貢献し、大会MVPを獲得した。東京五輪代表入りに向けて順調なステップを踏んできた中で、コロナ禍での大会1年延期に伴い、昨春、さらなる飛躍を求めてシュートフォームの大幅な改造に着手。両手で打つのではなく、片手で打つスタイルへと変更した。

しかし、新フォーム習得は容易ではなかった。昨秋にWリーグが開幕しても、ワンハンドから放たれたボールはリングから外れ続けた。シュート精度の低下によって精神的な迷いも生じ、プレー全体に悪影響を及ぼした。

小中学時代には所属チームのコーチとして愛娘を指導し、その成長を見守り続けてきた母貴美子さんにとって、「あんな麻衣を見るのは初めて」というほどの深刻なスランプ。娘が大人になってからはバスケに関して口出しすることを控えてきたが、昨年12月に皇后杯準決勝第1戦が終わった後、たまらず電話し、強い口調で伝えた。「いつまでもこだわっていてはチームにも迷惑をかけるだけ。もう元に戻しなさい」。涙声の麻衣と1時間半、とことん話した。

翌日の皇后杯第2戦。両手でシュートを放つ娘の姿があった。本来の姿を取り戻した麻衣は、そこから急ピッチで調子を上げ、再び輝き出した。今年4月の五輪最終予選では得意の外角シュートを連発し、切れ味鋭いドリブルで相手守備を突破。五輪切符獲得の原動力となった。

紆余(うよ)曲折をへてたどり着いた五輪の舞台は、バレーボール男子代表でリベロとして活躍した父健之さんの出場がかなわなかった場所でもある。目標としていたメダルには手が届かなかったが、家族の思いも胸に、麻衣は全力を振り絞ってプレーした。

  ◇  ◇  ◇

男子の富永は8試合で55得点を挙げて大会を終えた。これは準々決勝を終えた27日時点において、全男子選手の中で3位に入る好成績だ。今秋からは全米大学体育協会(NCAA)のネブラスカ大編入が決まっており、近い将来にNBA入りの期待もかかる逸材。世界が注目する東京五輪で、その才能を存分にアピールした。

身長211センチの父啓之さんも元日本代表選手で、世界選手権のメンバーに選ばれた経歴を持つ。母ひとみさんも、前述の通り実業団の三菱電機に所属。2人のバスケ選手の間に生まれた男の子は、冒頭で触れた“お宝ツーショット写真”に収まる1歳半のころには、すでに大器の片りんをのぞかせていた。「赤ちゃんのときからボールを投げるのが大好きだった。アンパンマンよりもNBAの試合映像のほうに興味を示し、テレビ画面をじっと見ているような子で、だから誰かに預かってもらうときには、ボールとNBAのビデオを渡していた」と母ひとみさんは証言する。

幼少期には、実業団の試合に出場する父を応援したあとに、会場の体育館で“シュート練習”をして遊んだ。バスケットボールがすぐそばにあることが当たり前の環境で育った少年は、小学3年でミニバスケットボールを始めると、すぐに際立った動きを見る。とはいえ、それまで大人相手の1対1しか経験がなく、最後はシュートを決めさせてもらって…という状態でやってきただけに、「最初は5対5でもパスをするという発想がなかった。1人で運び、1人でシュートまで持っていってという感じ。とにかくシュートを打つのが大好きで」と、母は笑いながら振り返る。

のびのびと育まれた才能が大きく花開いたのは愛知・桜丘高3年のときで、全国大会のウインターカップに出場すると驚異的なロングシュートを次々と沈めて話題を集めた。NBA入りを目指して米国で研さんを積む中で、東京五輪の3人制代表に選出された。メンバー入りが決まった後に母は、「守備は苦手だし、まだまだひょろっとしているし。大丈夫なんでしょうか」と冗談めかして話していた。そんな親の声をよそに啓生は、少年時代と同じように目を輝かせ、世界を相手に鮮やかなシュートを決め続けた。

完成はまだまだ先のこと。それでも留学生活を経て着実に成長している姿を、はっきりと東京で示した。【奥岡幹浩】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

中川真依のダイビング

女子シンクロ高飛び込みの緊迫メダル争いに鼓動高まった/中川真依

いよいよ東京オリンピックが開幕した。飛び込み競技も25日から始まり、シンクロ種目からのスタートとなった。

オリンピックでのシンクロ種目は、8カ国のみ出場することが出来る。そのため予選は行われず、一発決勝。出場できれば入賞が約束され、試合展開によっては上位に入れる可能性も高い。そういった理由からも、とても魅力的な種目だ。

シンクロは2人の同調性を競う種目。1人だけが成功しても高得点を取ることは出来ない。そこが難しさであり、面白さでもある。

男子シンクロ高飛び込み決勝 2本目の演技を行う伊藤(右)、村上組(撮影・鈴木みどり)

26日の男子シンクロ高飛び込み決勝では、中国とイギリスが金メダル争いを繰り広げる展開に。試合中盤では、珍しく中国がわずかにミス。その代償は大きく、期待通り全ての演技を完璧に決めてきたイギリスが、1.23点という僅差で金メダルに輝いた。

最後の最後まで結果が分からず、とてもハラハラドキドキする面白い試合展開をみせてくれた。

日本からは、ベテランである村上和基(三重県スポーツ協会)と伊藤洸輝(JSS宝塚)ペアが出場。しかし、男子の世界の壁は厚く、8位という結果に終わってしまった。男子は、高難度の技を完璧に決めなければ戦えない。今回は、その事を痛感する結果となった。しかし、この世界を経験した彼らは、またひと回り成長し、今後さまざまな形で生かしてくれるに違いない。

村上とは、ジュニアの頃から日本代表として、共に戦ってきた戦友の1人。1度は競技を引退したものの、オリンピックという夢を諦められず、またこの世界へ戻ってきた。年齢や体力的にも、競技人生は残りわずか。そんな中で、何とかかなえた夢の舞台。彼とは、あまりにも長い年月を共に過ごしたため、試合を観戦していると、私の中に眠っていた選手時代の感覚をよみがえらせ、試合会場で応援しているようなスリルを味わわせてくれた。最後まで戦い抜いた彼らに、称賛を送りたい。

女子シンクロ高飛び込み決勝、1本目の演技を行う荒井(左)と板橋(撮影・河野匠)

3日目の27日には女子シンクロ高飛び込み決勝が行われ、リオオリンピックを経験している板橋美波(JSS宝塚)とオリンピック初出場の荒井祭里(JSS宝塚)ペアが出場した。

同じ所属先で、競技を始めた頃から一緒に練習している2人。それでも筋力や跳躍力には個人差がある。シンクロではその差を埋めるために、さまざまな工夫をして今大会に臨んだ。試合では、あまり緊張を表に見せない板橋とは対照に、荒井は緊張を隠さない。試合前にエールを送ると、荒井からは「とても緊張している」とメッセージを返してくれた。それでも試合が始まると、そんな気持ちはなかったかのような、完璧な演技を何本もみせてくれた。全く失敗しない中国以外は、どの国がメダルを取ってもおかしくないほどの接戦だった。

最後の1本を残して日本は3位。もしかしたら歴史的瞬間が観られるかもしれない!と鼓動が高まった。最終ラウンドは、すべての国が同じ種目での戦いとなった。選手たちも、ここで結果が決まることは分かっていただろう。私も、とにかく祈るように応援した。

どの国も、小さなミス。これはいけるかも!?と期待はさらに膨らんだ。しかし、緊張と午後という時間帯から体が動きすぎてしまったのか、2人とも回転を止めきれず、大きく水しぶきが上がってしまった。

結果は6位。もちろん素晴らしい結果ではあるが、メダルを取れる可能性が十分にあっただけに、悔しさが残る。試合を終えた後の2人の表情に、私も涙が出た。この結果をどう受け止めるかはそれぞれだが、自らの力でいい方向へとつなげていってほしい。

30日からは、個人種目も始まる。注目が集まっている玉井陸斗(JSS宝塚)や、最もメダルに近いと期待されている、三上紗也可(日体大)など、この後も目が離せない選手たちが続々と登場する。

会場で観戦できない事は非常に残念ではあるが、画面越しからでも選手たちの緊張感やオリンピックに賭ける想いは十分に伝わってきた。選手にとっても、オリンピックならではの独特の雰囲気や、何万人もの大歓声を感じられない事に物足りなさもあるだろう。それでも、元選手という立場から言えば、本当に「開催してくれてありがとう」という言葉に尽きる。状況が状況なだけに、さまざまな意見や立場がある事は、選手や関係者、私たちのように応援している人も十分に理解している。

選手は、オリンピックに出られる「幸せ」と「感謝」を感じながらも、悔いなくこの大舞台を終えられるよう、全力を尽くしてほしい。

(中川真依=北京、ロンドン五輪飛び込み代表)