日刊スポーツ

ラグビーW杯がやってくる

ブレークダウンは試合の主導権を握るボール争奪戦

<ラグビー用語(1)ブレークダウン>

今日からの連載は、知ればラグビー通へと1歩前進する「ラグビー用語」を紹介する。シリーズ第1回は「ブレークダウン」。文字面だけでは想像しにくいが、理解できれば、ラグビー観戦が一気に楽しくなるワードだ。日本ラグビー協会A級で、日本人で初めてスーパーラグビーで笛を吹いた久保修平レフェリー(37)にも解説してもらった。

 ◇  ◇  ◇

「ブレークダウンで勝てませんでした」「課題のブレークダウンで勝負できました」。試合後の選手が、最近よく口にする。ルールではない。ある一連の動きの流れをブレークダウンと呼ぶ。その一連の流れについて久保レフェリーは「簡単に言えばタックルとラック」と説明する。

久保 タックルすると選手は倒れる。倒れるとボールを離さないといけない。タックルした選手も離れないといけない。そこで最初のボールの争奪戦が完結する。その次に互いのチームの2人目による、ボールの守り合いと取り合いがラック。ここまでをブレークダウンと呼びます。

この一連の流れは「80分間の1試合で軽く200は超える」という。タックルの可否は一目瞭然だが、タックル後に発生するラック(密集)は一見すると何が起こっているか分かりにくい。しかし互いのチームの考えはシンプル。「どんどん球を出したい攻撃側と、球出しを遅らせたいデイフェンス側の争奪戦です」。

ブレークダウン

タックルが成立すると、ボールを持っている選手はボールを離さないといけない。この瞬間にボールの所有権はイーブンになり、地面に置かれたボールを互いのチームの2人目、3人目が取り合う。攻撃側は相手のディフェンスラインがそろう前にボールを出して攻撃したい。防御側は球を取り返したい、あるいはディフェンスラインを作るための時間を稼ぎたいという魂胆がある。

カギは「スピード」。タックル成立後に、いかに速く密集に寄れるかが、勝負の分かれ道だという。数多くの試合で笛を吹いてきた久保レフェリーは、密集への寄りが早い代表的なチームにニュージーランド代表を挙げた。

久保 タックルが決まった後の寄りの速さ、判断がうまい。ただ力強いというわけではなく1人の選手が大きく前進して孤立してしまうシチュエーションでも、それを読んで動いている。見極め、予測、勝負どころが分かっている。

密集の中からボールの球出し役を務める日本代表候補のSH田中史朗も「ブレークダウンの出来が試合の流れを決める。日本代表のジェイミーHCも、ブレークダウンで勝負できるかが最重要だと考えている」と話す。派手さの中に、繊細さや頭脳戦が繰り広げられるブレークダウン。単に「ごちゃごちゃした密集」というのではなく、試合の主導権を握るボール争奪戦という見方ができれば観戦の面白さがより増すはずだ。【佐々木隆史】

We Love Sports

「消えた天才」土井杏南に光明 絶望経て再び駆ける

土井杏南

向き合った時間は重苦しく、止まったように長かった。まだ本来の力ではない。ただ16歳で12年ロンドンオリンピック(五輪)の女子400メートルリレー代表となった土井杏南(23=JAL)は長い暗闇を脱する気配が漂う。

今季初戦だった7日の埼玉県内の記録会は、ともに向かい風0・4メートルで11秒74を2度並べた。21日の出雲陸上の決勝では追い風0・8メートルの11秒68。自身3年ぶりの11秒6台で、昨年の日本選手権女王の世古和(27=乗馬クラブクレイン)にも先着した。久々に大勢の報道陣にも囲まれた。「(女子100メートルの参加標準記録)11秒24を出さないと世界選手権には行けない。今回の結果もうれしいとかはなくて、目指している11秒24への過程。そこに向けて頑張ります」。今の状態を象徴するように力強く言葉を連ねた。

埼玉・朝霞一中では11秒61の中学記録を残し、埼玉栄高2年時には現在の自己ベストでもある11秒43の高校記録を樹立した。ロンドン五輪の出場は日本陸上界で戦後最年少。天才少女として世間を騒がせたが、その後はケガに苦しんだ。ヘルニアや肉離れの繰り返し。大東大3年時は日本選手権で予選落ち。世界選手権やリオデジャネイロ五輪は出場できない悔恨さえ湧かない。「人ごと」と別世界のようにも感じた。光明の見えない闘いが嫌になり、練習へ行かなかったり、グラウンドに出てもストレッチだけして帰ったりした日もある。その後も浮上の兆しが見られなかった。

昨年7月の南部記念。追い風0・7メートルの条件下で12秒14。サブトラックに戻った土井は泣いていた。携帯電話を手にし、埼玉栄高の恩師・清田浩伸監督に再び指導を頼み込んだ。「何もしないで、このままでは終わってしまうのは嫌だった」。拠点を大東大から埼玉栄高に移した。清田監督からは「過去の土井杏南に戻るのではなく、0にして新しい土井杏南を作っていこう」と告げられた。体は左右のバランスが崩れ、走りはバラバラになっていた。体軸を鍛え直し、1度過去をリセット。骨盤を意識し、「股関節周りの力を使って走る」をテーマに新しいフォームを模索した。メニューは別とはいえ、11秒67の自己記録を持つ鈴木一葉(3年)ら高校生に交じって汗を流す。「高校生ってすごく元気。相乗効果というか、私も刺激をもらいます」。練習が終われば、一緒に食事に行くこともある。「みんな私を上と思っていないみたいですけど」と笑う。でも分け隔てなく接してもらえるのはうれしそうだ。

昨年は資格記録が足りず、体は万全なのに日本選手権も織田記念国際も出場さえできなかった。走ったのは地域の記録会ばかり。「そういうレベルだったんですよ」と笑い飛ばす。嫌だった練習も今は違う。「毎日の練習が、前日から寝られないぐらいすごい楽しいんです。試合も練習も楽しいです」。明るい表情も戻ってきた。

自らは「復活」という言葉を使わない。「進化」と表現する。「痛い思い、苦しい思いもいっぱいあった。皆さんは復活とおっしゃってくださるのですけど、私はすべて進化の過程の1つだと思っている」。17年10月1日の入社内定式ではこう口にしていた。「JALの一員として世界に羽ばたけるように頑張っていきたい」。飛行機だって逆風を利用して、高く飛び立っていく。思うように走れなかった果てしない苦難を経た先に、まだ見ぬ景色が広がっている。【上田悠太】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆上田悠太(うえだ・ゆうた)1989年(平元)7月17日、千葉・市川市生まれ。明大を卒業後、14年入社。芸能、サッカー担当を経て、16年秋から陸上など五輪種目を担当する。18年平昌五輪はフリースタイルスキー、スノーボードを取材。

ラグビーW杯がやってくる

柔と剛を使い分ける世界的名将エディー氏の奥深さ

<イングランド代表エディー・ジョーンズ監督インタビュー 取材後記>

ワールドカップ(W杯)開幕まで5カ月を切り、前日本代表ヘッドコーチで、優勝候補イングランド代表を率いるエディー・ジョーンズ監督(59)がインタビューに応じた。15年大会で、24年間勝利のなかった日本を歴史的3勝に導いた名将が、現在の日本代表、W杯で勝利するための組織論などについて語った。

インタビューで考え込むジョーンズ監督(撮影・滝沢徹郎)

絶対的な信念と、変化を恐れない姿勢。それがジョーンズ監督の指導の根底にあると感じた。指導者としての究極は「最初の1分から最後の1分まで、自分が試合をコントロールすること」。15年時の代名詞「ハードワーク」を自身にも課し、信念のもとに周囲との衝突も力に変えていくスタイルは“剛”。だが、方法論は“柔”ともいえる。

日本代表HC時代、総合格闘家の高阪剛氏にタックルの指導を請い、プロ野球巨人の原辰徳監督からメンタル面の教えを受けるなど、必要と思えば、指導は枠にとらわれない。イングランドでも、ミーティングに過去の代表主将を呼ぶなど、常にチームに刺激を与える手法は変わらないという。人選のポイントを聞くと「自分より賢い人」と笑って答える。険しい表情でラグビーを語り、ユーモアを交えて場を和ます。柔と剛。世界的名将の奥深さを垣間見た気がする。【奥山将志】

ラグビーW杯がやってくる

エディー氏、日本の8強へ「スコットランド止めろ」

<イングランド代表エディー・ジョーンズ監督インタビュー>

ワールドカップ(W杯)開幕まで5カ月を切り、前日本代表ヘッドコーチで、優勝候補イングランド代表を率いるエディー・ジョーンズ監督(59)がインタビューに応じた。15年大会で、24年間勝利のなかった日本を歴史的3勝に導いた名将が、現在の日本代表、W杯で勝利するための組織論などについて語った。【取材・構成=奥山将志】

2019年ラグビーW杯について語ったジョーンズ監督(撮影・滝沢徹郎)

ジョーンズ氏は時折、紙にペンを走らせ、熱く思いを語った。昨年11月には日本代表と英国で対戦。今の日本をどう見ているのか。

「対戦して感じたのは、信念、結束力があること。選手が互いを信じ、コーチが求めているスタイルにも共感していた。15年より体も大きくなり、すごくポジティブな状況だと思う」

日本が目指す、史上初の8強入り。名将は「可能だ」と言い切った。ポイントに挙げたのは、1次リーグ最終戦のスコットランド戦。その勝者が決勝トーナメントに進むと予想した。

「(A組では)アイルランドはおそらく4勝するだろう。もう1つのトップ8は、スコットランドか日本のどちらか。互いにサモア、ロシアに勝利し、2勝1敗で迎えた最終戦で勝った方が1次リーグを突破する展開になると思う。日本にはそれだけの力がある」

今年の欧州6カ国対抗戦では、そのスコットランドと対戦。前半を31-7でリードするも、後半に猛攻を受け、38-38の引き分けに終わった。その強さ、日本が注意すべき点はどこか。

「スコットランドの攻撃は、アンストラクチャー(陣形が崩れた状態)を好み、ワイドにプレーしてくる傾向がある。そして、サイドに固めてプレーし、一気に逆のサイドに振ってくる。日本の課題は防御。特にキックチェイスは重要で、3フェイズまでにつぶしにいかなくてはならない。トップ8に進むには、そこを長所にする必要がある」

警戒すべき選手には、SOラッセルとFBホッグの2人の名前を挙げ、相手FWの勢いを止めることも勝利への条件だと説いた。

「2人とも、スピードがあり視野も広い。非常に危ない選手だ。日本としては相手の攻撃に勢いをつけさせないことが重要。そうすればラッセルも攻撃的なキックを蹴れないし、ボールもワイドに振れず、ホッグの圧力も怖くない。大切なのは、フィジカルのバトルに勝つこと。走ってきたスコットランドのFWは、必ず止めなければならない」

2019年ラグビーW杯について語ったジョーンズ監督(撮影・滝沢徹郎)

開幕まで5カ月。知将として知られるジョーンズ氏は、自国開催のメリットを最大限に生かすことも、躍進の鍵だと力説する。

「私なら国民のサポートを使う。一緒に戦うムードを作り、共感してもらう。1億2000万人がグラウンドで戦っているという状況を作り出す。W杯で大事なのは、心身をいかにフレッシュな状態に戻すか。疲労を感じている時、ファンの声は大きな原動力になる。練習場でバスを降りた瞬間にファンが拍手をして待っていてくれることで、チームの雰囲気は変わる」

スタッフにも厳しい要求をつきつけ、妥協を許さぬ姿勢で目標へ突き進むジョーンズ氏。そもそも、勝てる組織とは何なのか。

「良い組織のポイントは、<1>常に先のことを考える<2>予測されることの1歩前にいる<3>プランBを持っておくこと。そして、当然だが、そこには優秀なリーダーが必要だ。求められるのは、周りの人たちの能力を最大限に引き出す力。前に立ってリードしていく時もあれば、時には後ろからリードする時もある。その見極めができる人が優秀なリーダーと言える」

そして、組織をまとめるもう1つの要素に「言葉」の使い方があると続けた。

「どのチームも一生懸命やりたいし、規律を守りたい。そして、同じ方向を向いて戦いたい。リーダーに必要なのは、やりたいことを言い続けること。ただ、太鼓を『ダン、ダン、ダン』と同じテンポでたたき続ければ、最初は刺激になっても、時間がたてば退屈になる。いかに同じことを、異なる言葉で伝えられるか。メッセージを新鮮に伝えられるかが重要だ」

イングランド代表では、チームスタッフにスポーツ科学者を招き、「考える」文化を重視している。

「昨今のテストマッチの試合はトータル約100分で、ボールインプレーの時間は全体の40%。つまり、ボールを持っていない60分は、考える時間になる。だからこそ、その間のリーダーシップがすごく重要。開幕までに、そこを磨いていきたい」

日系米国人の母を持ち、妻は日本人。指導者としてのキャリアも日本で始まった。特別な地だからこそ、W杯開催は感慨深い。

「W杯のホスト国になったことは、ものすごく名誉なことで、アジアにも良い影響があると思う。大きな責任があるが、素晴らしい大会になると信じている」

◆エディー・ジョーンズ 1960年1月30日、オーストラリア・タスマニア州生まれ。スーパーラグビーのブランビーズを率い、01年優勝。オーストラリア代表監督として03年W杯準優勝。07年大会は南アフリカのアドバイザーとして優勝に貢献。12年に日本代表ヘッドコーチとなり、15年大会で歴史的3勝。同年11月からイングランド代表監督。妻は日本人。現役時代はフッカーで代表歴はない。

ピッチマーク

初V逃した最終日…大西葵の成長予感させた最後の涙

KKT杯バンテリンレディスオープン最終日、最終組でスタートする大西葵(撮影・今浪浩三)

彼女は、今にも泣きだしそうだった。質問を投げかけても、返ってくる返事は短い。時折、どこまでも青く、澄み切った熊本の青空を眺めるようにしながら、涙がこぼれるのを我慢していた。おそらく、涙がこぼれれば、せきを切ったように止まらなくなっていただろう。目を赤く腫らし、短くため息をはいて、重い足取りでコースから去った。

大西葵(24=YKK AP)にとって、悲願のツアー初優勝は手の届く場所にあった。熊本空港CCであったKKT杯バンテリン・レディース。4月19日の第1ラウンド(R)で68を出し、首位と1打差2位。続く20日の第2Rでも70と2つスコアを伸ばし、首位で21日の最終Rを迎えた。

だが、これもプロの厳しさ、ゴルフの難しさなのだろうか。「ここまで来たら、絶対に優勝したいです」。そう言い切って臨んだ、プロ人生2度目の最終日最終組。彼女は、悪夢を見た。

2番パー4で第2打がシャンクしてOBを打ち、トリプルボギー。1度は気持ちを切り替えたが、10番パー4でもティーショットがOBとなり、2度目のトリプルボギー。優勝争いから、遠く離された。

苦しんだ最終日。その18ホールは、彼女のゴルフ人生、その縮図のようでもあった。

「私は(手が)全く動かないから。(引退を)考えたりも、したんですよ。(パットが)入らなくても、動きさえすればいいんですよ、私は。全く動かないので、ホント、いろいろ考えたりしていました」

パターのイップスになり、ここ数年は「引退」の2文字が頭をよぎった。昨年は13戦出場で予選落ち9回。17年に約1272万円あった年間獲得賞金は、226万円まで激減した。悩み、苦しみ、大好きなゴルフを、諦めかけた日もあった。試行錯誤を繰り返し、シャフトを左腕に固定してストロークするアームロックにして、ようやく改善の兆しをつかんだ。

その時間は、まるで21日の最終日のようだった。どんどん優勝争いから、離されていく。憧れ続けた夢が遠ざかっていく。通算6アンダーから出たスコアは、ついに同3オーバーにまで後退した。

「ムカついてきて、10番では昨日、一昨日と刻んだところを、ドライバーで打ってOBにしちゃって。そういうのダメだな、と思って。ショットがひどすぎて、ちょっと『もういいや』と思ってしまった」

自暴自棄になり、ボロボロになっても、彼女は最後まで立派な姿勢を貫いた。これは、大西と同組で、国内通算23勝目を飾った李知姫(40=韓国)が、優勝会見で明かしたコメントである。

「葵ちゃん、泣きそうだった。自分が苦しい1日で、いっぱいいっぱいのはずなのに、横で応援してくれるんですよ。(パットの際に)『入れ~』って。すごいですよ。来週、ご飯に連れて行ってあげます」

大勢のギャラリーが待ち受けた最終18番パー5。まるで暗闇を歩いているようだった1日に、ほんの少しだけ、光が差し込んだ。大西は、長い長いバーディーパットを沈めた。

その瞬間、涙がにじんだ。

イップスに苦しんだ時間と、優勝に手をかけながら自ら手放した18ホールが、走馬灯のように浮かんできたのだろうか。結果は同2オーバーの42位でも、最後のバーディーパットこそが、イップスから抜け出した時と同じように、次につながるものになるに違いない。

大会が終わり、いつまでも悲しそうな顔をしている大西に近づき、そっと肩を抱いた人がいた。今大会には出場していない親友の藤田光里(24)だった。仲のいい大西の優勝を見届けようと、熊本まで駆けつけていた。

「ひかり。わざわざ東京から来てくれた。いきなり。不甲斐(ふがい)ない。ごめんね。ありがとう」

大西は自身のSNSにそう記した。

プロスポーツでスポットライトを浴びるのは、勝者だけである。それでも、悔し涙を流した分だけ、人は必ず強くなる。【益子浩一】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

KKT杯バンテリンレディスオープン最終日、通算3オーバーと崩れガックリする大西葵(撮影・今浪浩三)

ラグビーW杯がやってくる

同大「楽苦美」代表に脈々と流れる岡・平尾イズム

85年1月、大学選手権決勝の同大-慶大戦で先制トライを挙げる同大の平尾誠二

<大学と日本代表(5)>

大学ラグビーに焦点を当てるシリーズ最終回は、同大。1982年度から大学選手権3連覇を果たしている。「自由奔放」なラグビーを作り上げ「自主性」を重んじたのが岡仁詩部長(享年77)であり、その中心選手だった平尾誠二(享年53)が、日本代表にそれを伝承した。前回ワールドカップ(W杯)の南ア戦の劇的トライこそが、岡・平尾イズムの象徴であった。

      ◇       ◇

同大ラグビー部は、1980年度に大学選手権で初優勝し、1年おいて82年度から前人未到の3連覇を果たした。

京都市左京区の比叡山を仰ぐ岩倉グラウンド。試合を前に、先発を選ぶABマッチ(1本目対2本目)は、味方同士が壮絶な戦いを繰り広げ、けが人が続出する激しいものだった。そんな全体練習が2時間ほどで終わり、あとは自主練習が比叡おろしでシンシンと冷えるグラウンドで、真っ暗になるまで続いた。大八木がベンチプレスで筋トレをし、平尾らプレースキッカーは、何度も角度を変えながらゴールめがけて蹴り上げる。ラインアウトのスロワーは、バスケットリングに投げ入れる練習をして正確なスローを磨いた。

「やらされる練習より、自分たちで考える練習が身につく」と言っていたのが、岡部長だった。岡さんはヘッドコーチでも監督でもなく、肩書は「部長」。日本代表監督の経験もあり、今では当たり前のようにやるショートラインアウトを考案したといわれている独創的で先進的な人だった。

そんな岡部長が常々言っていた。「私はせいぜいハーフタイムにアドバイスを送るだけで、試合中には何もできないからキャプテンを中心に自分たちで考え、自由にやらせるんだ。だから監督でもヘッドコーチでもなく部長でいいんだ」。

その岡部長の持論を忠実に体現したのが、平尾だった。3連覇の間、SOやCTBで縦横無尽に走り回った。意表を突くキックパス、突然のドロップゴール、パスとみせかけ自分で走る。飛ばしパスなど、型にとらわれない、見ていて楽しいラグビーをやった。のちに平尾は99年の第4回W杯で代表監督になるが、マコーミックを初の外国出身の主将に任命するなど、旧態依然の考えを捨てた、柔軟で先進的な指導者だった。これは恩師の岡部長からの教えであり、平尾が同大から神戸製鋼での現役時代に培っていったものだ。

自分たちの考えでプレーする意識も、平尾が代表監督時代から伝承してきた。W杯南ア戦の歴史的勝利はPGを狙わずリーチ主将を中心に考えた末、スクラムを選択、逆転トライに結びつけた。これこそ、フィールド内の自主性を持つ15人によるマネジメントだった。

現代表に同大出身者はいない。それでも脈々と岡・平尾イズムは流れている。そういえば、岡さんは色紙にこう書いた。「楽苦美」。楽しくて、苦しくて、美しい。そんなラグビーを、W杯の大舞台で日本代表もきっと見せてくれるはずだ。【町野直人】

◆同大ラグビー部 1911年創部、慶応義塾、京都三高に次ぐ、日本で3番目の歴史を持つラグビーチーム。61年度に日本選手権の前身であるNHK杯で初の日本一になり、63年度の第1回日本選手権で近鉄を破り、2度目の日本一に輝いた。関西協会会長の「空飛ぶウイング」坂田好弘氏や「ミスターラグビー」といわれた故平尾誠二氏ら数多くの日本代表選手を輩出している、関東の早慶明とともに、関西の雄といわれる大学ラグビーの伝統校。

◆W杯の日本代表に選出された同大出身選手 木村敏隆、広瀬務、大八木淳史、林敏之、宮本勝文、萩本光威、平尾誠二、松尾勝博、細川隆弘、弘津英司、中村直人、中道紀和、平尾剛史、大西将太郎、平浩二、宇薄岳央。

83年1月、日本選手権の新日鉄釜石-同大戦を見つめる同大・岡仁詩部長
ラグビーW杯がやってくる

才能を凌駕する努力 京産大は比叡山で心も鍛える

04年10月、同大戦で京産大SH田中史朗は2トライと大活躍を見せる

<大学と日本代表(4)>

大学ラグビーに焦点を当てるシリーズの第4回は京産大。大学選手権でいまだ優勝経験のない同校は、たたき上げの精神で多くのワールドカップ(W杯)メンバーを輩出した。プロップ田倉政憲、ロック伊藤鐘史(ともに現京産大コーチ)、CTB吉田明、SO広瀬佳司、WTB大畑大介らに加え、現代表候補にもSH田中史朗、プロップ山下裕史がいる。大西健監督(69)の信念は「努力は才能を凌駕(りょうが)する」。そのルーツに迫る。

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84年秋、京都の吉祥院球技場で京産大の大西監督は高校の試合を眺めていた。その年の関西リーグは同大、天理大に続く3位。有名選手は関東の早慶明、関西なら名門の同大に流れる。選手探しに、どんな試合でも足を運んだ。公立の東宇治高は、次々とトライを浴びていた。だが点差が広がっても、1人だけ諦めずに走り、転んでは起き、起きてはタックルに入る選手がいた。後に日本代表として91、95年と2度のW杯に出場する田倉政憲だった。

35年が過ぎた今でも大西監督は鮮明に覚えている。

「(強豪の)伏見工とやったら100点差で負けるような高校にバンバン、タックルにいく生徒がおったんです。まだ体は小さいし、普通の選手。でも、その姿を見て、声をかけた」

入学するとプロップではサイズが足りず、当初はフッカーだった。連日、嘔吐(おうと)しながら、2時間もスクラムを組んだ。田倉が2年になると、大西監督はあえて、気が強いことで有名だった笹木栄を対面にしてスクラムを組ませた。笹木は定位置を譲りたくない一心で、組む瞬間に田倉に頭突きを食らわせた。2日連続で救急車で運ばれた。それでも練習を休むことはなかった。

95年から3大会連続でW杯に出場したSO広瀬は、大阪の公立校である島本高の出身。毎朝6時に始まる練習の1時間前から1人で走り込み、夜の練習後にはキックを100本蹴った。日本代表でスターになったWTB大畑は、東海大仰星高時代は高校日本代表の控え。京産大に拾われた選手の1人で、厳しい走り込みで才能が開花した。

心を鍛えることも取り入れ、今でも比叡山の明王堂に大阿闍梨(あじゃり)を訪ねる。夜2時に修行として獣道を30キロ歩く。真っ暗闇で、すぐ横は崖。部員同士が手を離せば転落する。広瀬、大畑らと同じ時期を過ごした加藤剛OB会長(44)は「特にFWの選手は、泣きながら練習をしていた。体力、肉体的な部分だけでなく、心も強くしてもらった」と明かす。

89年春に京産大を巣立った田倉は、三菱自動車京都へ進んだ。当時、日本代表を率いた宿沢広朗監督(享年55)は、田倉を抜てきする。同年5月28日。東京・秩父宮で行われたスコットランド戦が、桜のジャージーを着た初の試合になった。5年前に見た時と同じように、田倉は倒れては起き、起きてはタックルを繰り返した。ただあの頃より体は大きく、スクラムは見違えるほど強くなっていた。

日本は28-24で金星を挙げ、2年後のW杯ではジンバブエから初勝利を飾る。大西監督は「田倉のスクラムとタックルで、日本は強くなった」と振り返る。

スコットランドを破った日、歓喜に沸く秩父宮で、宿沢監督と目が合った。

「先生、ありがとうございました。おかげで、勝つことができました」

その言葉を聞いた瞬間、大西監督の頬を涙が伝った。【益子浩一】

◆京産大ラグビー部 1964年(昭39)に同好会として発足。関西3部リーグに所属した73年に、天理大コーチだった大西監督が就任。3季目の75年に1部昇格を決める。関西リーグは90年に初制覇し優勝4回。全国大学選手権は、計7度進出した4強が最高成績。シーズン中は大西監督が身銭を切って、毎日選手にちゃんこ鍋を食べさせる「栄養合宿」が伝統。同監督は定年となる今季が、最後のシーズンになる。明大出身で神戸製鋼で活躍した元日本代表CTB元木由記雄がヘッドコーチを務める。

◆W杯の日本代表に選出された京産大出身選手 田倉政憲、前田達也、広瀬佳司、吉田明、大畑大介、田中史朗、山下裕史、伊藤鐘史。

17年、大学選手権準々決勝で明大に敗れ選手をねぎらう京産大の大西健監督(左から2人目)
ラグビーW杯がやってくる

早大、常に進化する「伝統」 原点回帰ではなく挑戦

09年1月、早大・中竹監督(右)は豊田主将と肩を組み「荒ぶる」を歌う

<大学と日本代表(3)>

大学ラグビーに焦点を当てるシリーズの第3回は、大学選手権で最多優勝15回を誇る早大。日本選手権では大学チームで唯一、複数回(4回)の優勝を経験するなど、大学ラグビー界をリードしてきた。堀越正己や五郎丸歩ら数多くの日本代表選手も輩出。強さの裏には、伝統を守りつつ、伝統にとらわれないチャレンジ精神があった。

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えんじと黒のボーダーに黄金の稲穂。伝統のジャージーは、土でも芝生でも、はたまた雪の上でも鮮やかに映えた。長い年月をかけて、多くの人の記憶に刻み込まれた“赤黒”。18年に創部100周年を迎えた早大は、常に大学ラグビー界を引っ張り続け、堀越正己、増保輝則、五郎丸歩ら多くの日本代表選手を輩出してきた。

同時に多くの名指導者も輩出してきた。そのうちの1人が、06年から4シーズンに渡って指揮した中竹竜二氏(45)。学生時代は主将を経験し、監督になってからは関東対抗戦3度、大学選手権を2度の優勝へと導いた。「僕が現役の時から早稲田は雑草集団。数人の天才と大半の雑草。狂ったように練習したから勝てた」と語る。高校時代は無名だった選手の中に、能力の高い選手が入って刺激を与える。激しいポジション争いが早稲田を強くした。

1927年のオーストラリア遠征をきっかけに「揺さぶり」戦法が芽吹いた。50年代から80年代まで3度にわたって早大を指揮し、日本代表監督も務めた大西鉄之祐氏(故人)は「接近・展開・連続」の理論を完成させた。小柄な日本人が世界と戦うヒントにもなった。軽量FW・BK中心の展開ラグビーは「横の早稲田」と称され、強力FWを擁する「縦の明治」と比較されながら、名勝負を繰り広げた。

90年近く早大の代名詞となった戦術が早大を強くしたが、伝統の圧力に押しつぶされそうになる時もあった。「とにかく揺さぶりだけやっている時代もあった。昔からやっている伝統さえやれば勝てるみたいな」と中竹氏。勝利への手段が目的化してしまった時期もあったという。

伝統に縛られがちの早大を、中竹氏は解放に努めた。指揮官3年目から、当時の日本代表のコーチ陣をチーム練習に招請。時にはジョン・カーワンHCを呼び寄せるなど、2年間で約20回ほど日本代表から最先端の技術を学んだ。革新的な環境で育てた教え子のFB山中亮平、CTB村田大志、フッカーの有田隆平らが日本代表に名を連ねた。

伝統を作っては壊し、新しいことに挑戦してきた。原点回帰ではなく常に進化を求める文化は、早大だけでなく日本代表にも影響を与えてきたことは間違いない。【佐々木隆史】

◆早大ラグビー部 1918年(大7)11月7日に創部。優勝は関東大学対抗戦23度、大学選手権15度、日本選手権4度。87年対抗戦での明大との「雪の早明戦」は名勝負として今も語り継がれる。大学選手権優勝時などに歌う「荒ぶる」が現役生の目標。主なOBは元日本代表の堀越正己、五郎丸歩、現日本代表候補の布巻峻介(パナソニック)、山中亮平(神戸製鋼)ら。

◆W杯の日本代表に選出された早大出身選手 栗原誠治、吉野俊郎、堀越正己、増保輝則、今泉清、辻高志、佐々木隆道、青木佑輔、矢富勇毅、今村雄太、畠山健介、藤田慶和、五郎丸歩

81年12月、早大・大西監督はスタンドで観戦する
チアの木曜日

B-ROSE「横浜らしく」海や海賊テーマに気高く

チアリーディングやチアダンスのチーム、選手などを紹介する「チアの木曜日」。今週は、プロバスケットボールB1中地区に所属する横浜ビー・コルセアーズの公式チアリーディングチーム「B-ROSE(ビー・ローズ)」です。「横浜らしさ」を前面に打ち出したパフォーマンスでブースター(ファン)を魅了しています。

横浜ビー・コルセアーズチアリーダーズ「B-ROSE」(C)B-CORSAIRS

チームイメージは「Noble Beauty」(気品ある美しさ)。横浜市花の「バラ」のように、気高く華やかに試合会場を彩るのがチアリーディングチーム「B-ROSE」だ。

ハーフタイムで披露するパフォーマンスは、チアリーディングの枠を超えたエンターテインメントの世界。「横浜らしさ」をキーワードに、海や海賊をテーマにしたオリジナリティーあふれるパフォーマンスで、誰もが心から楽しめる空間を演出する。

試合中や試合間も、ブースターとともにチームを勝利へと導く熱い応援をし、会場はいつも熱気に満ちている。ブースターとのコミュニケーション、アイコンタクトなど立ち居振る舞いも、スタイリッシュで洗練されている。

創設当初からプロデューサー兼ディレクターを務める植村綾子さんは「B-ROSEは、横浜女性の憧れの存在であり、ロールモデルとして輝く存在であるようにと、パフォーマンス指導のみならず、立ち居振る舞い全てにおいて、徹底して指導をしています」と言う。試合活動以外にも、地域密着イベントやメディア出演、学校訪問などの数多くの地域貢献活動を行い、横浜市全体を盛り上げている。

12、13日のホーム最終戦(横浜文化体育館)でも、「B-ROSE」の13人全員が気高く凜(りん)としたバラとなり、ブースターとともに、勝利につながるパワーを送る。

◆横浜ビー・コルセアーズチアリーダーズ「B-ROSE」 2012年創設。チームのホーム試合(メインアリーナは横浜国際プール)に出演するほか、神奈川県内でイベント出演やボランティア活動などを行う。メンバーは現在13人。週に2回、約3時間の全体練習を横浜市内で行う。

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芳田司、同じ柔道着の強くてカワイイ最高の“相棒”

柔道女子57キロ級世界女王の芳田司(つかさ、23)が最強の相棒をゲット!? 2連覇を狙う19年世界選手権東京大会(8月25日開幕、日本武道館)に向け、今春から同じ所属のコマツに入社した48キロ級の妹・真(さな、18)を練習パートナーに付けて稽古に励んでいる。

代表合宿で姉妹で稽古する芳田司(右)と妹の真(撮影・峯岸佑樹)

当然だが、2人とも柔道着のゼッケンには「芳田」「コマツ」の文字が並び、背丈や髪形も似ているためか、その光景を見ると妙にホッコリする。5歳上の芳田は柔道と同じぐらい妹をかわいがっている。16日の都内での代表合宿では打ち込みの際、真へ身ぶり手ぶりを交えて助言。専属コーチに見えるぐらいの熱量で指導していた。

「自分のこともあるけど、気になることが多くて、ついつい言いたくなってしまう。教えることで初心や基本に戻れてなんだか新鮮な気持ち。妹のおかげで自分自身も成長出来ている」

稽古後、芳田は笑みを浮かべて、うれしそうにこう振り返った。

代表合宿で乱取りする芳田司(右)と妹の真(撮影・峯岸佑樹)

京都府出身の芳田は“柔道留学”のため中学から寮生活を送った。真とは小学生以来となる共同生活だ。年齢も離れ、これまで再会するのは互いの大会ぐらいだった。真が全日本柔道連盟の強化選手ばかり集う強豪のコマツに入社することになり「先輩後輩」の上下関係が生じることで「姉妹の関係性が崩れてしまう。どうしよう…」と危機感を抱いていた。しかし、真が覚悟を持って入社したことで、その不安は払拭(ふっしょく)されて、プラスの作用が働いているという。

10日前にもこんな出来事があった。世界女王であっても、国内のトップ8で争う7日の全日本選抜体重別選手権直前には「本当に私って強いのかな」と自問自答した。これまで、メンタル面の浮き沈みを課題としていたが、真が練習パートナーとなったことで、世界女王、そして姉としての自覚や責任感も増したという。

「モジモジしてられない。やっぱり、強くなる」

こう覚悟を決め、吹っ切れて勝負に挑んだ。決勝では苦手の玉置桃(24=三井住友海上)を破って3大会ぶりの優勝を飾り、世界選手権代表に選出された。

代表合宿後、妹の真について語る芳田司(撮影・峯岸佑樹)

一方、真も姉の背中を追うように急成長を遂げている。芳田が得意とする内股をモノマネで得意技にして、18年講道館杯優勝や同世界ジュニア選手権準優勝などの輝かしい実績を誇る。しかし、目指すべき目標は世界一で「お姉ちゃんのように世界の舞台で勝てる選手になりたい」と常に向上心を持ち続ける。

内に闘志を秘める姉と勝ち気な妹。タイプが異なる「凸凹姉妹」だが、互いに切磋琢磨(せっさたくま)することで大きな成長へとつなげている。もしかしたら、23歳の世界女王は20年東京五輪を見据えた上で、最高のタイミングで最強で最愛の相棒を手にしたのかもしれない。【峯岸佑樹】

18年講道館杯女子48キロ級決勝で妹・真の試合を祈るように見守る芳田司(左)(撮影・峯岸佑樹)

ラグビーW杯がやってくる

明大に受け継がれる哲学「前へ」北島監督の教え今も

<大学と日本代表(2)>

71年11月、本紙インタビューに答える明大ラグビー部の北島忠治監督

大学ラグビーに焦点を当てるシリーズ第2回は、大学選手権優勝13回を誇る明大。1929年から67年間チームを率い、96年に亡くなった北島忠治監督の教えのもと、松尾雄治、吉田義人、元木由記雄ら多くの日本代表選手を輩出。「前へ」の精神は、現在も、哲学として受け継がれている。

   ◇   ◇   ◇

2019年1月12日、紫紺のジャージーが、22年ぶりに日本一の座に返り咲いた。名門を復活に導いた田中澄憲監督(43)は、昨春のミーティングで、北島監督の遺訓「前へ」の意味を選手に説いた。「前へはプレーだけではない。生き方であり、逃げない姿勢。それが明治ラグビーだ」-。

大学選手権優勝13回。70年代後半から90年代にかけ、早大、慶大との激闘でファンを熱狂させ、日本ラグビーに大きな影響を与えた、「前へ」の精神。在学中の85年に日本一を経験し、11年W杯で日本代表GMを務めた太田治氏(54=日本協会トップリーグ部長)は、その本質はプレーでなく精神面にあると説明する。

「慶大の『魂のタックル』、早大の『接近、連続、展開』は戦術的だが、『前へ』は精神的なもの。北島先生が言っていたのは、勝利より、逃げない姿勢。そして、仲間のために体を張り、ルールを守ること。4年間をかけて、その精神を自分なりにかみ砕き、身につける。その哲学のようなものが明治には存在する」

91、95年と2度のW杯出場を果たすなど、日本代表としても活躍した太田氏。北島監督の教えは、卒業後も自らの指針になっていたという。直前で代表から落選した第1回W杯、ニュージーランドを相手に145失点を経験した第3回W杯。失意の際に立ち返った先も、恩師の考えだった。

「自分にとっては基準であり、軸。戻る場所があるから、きつい時でも向かっている方向を確認することができる。『前へ』の根底にあるのは、立ち止まりながらも、進んでいくことだと自分は解釈している」

北島監督が亡くなった96年度の優勝を最後に、明大は長い低迷期に入った。3年時に、その優勝を経験した田中監督は、18年に指揮官に就任した際、過去の歴史の中に、復活への重要なヒントがあると考えた。

「早稲田さんが、どうやって相手に勝つかを考えるチームだとすれば、明治は自分たちはこれで勝つというチーム。困難から逃げない姿勢もそうだし、『重戦車』もそう。低迷期は、そういう、こだわり、哲学が薄らいでいたように思う」

9月開幕のW杯に向けた日本代表候補で明大出身はSO田村、CTB梶村の2人。田中監督は、指導者として「明治らしさ」をまとったより多くの選手が、将来、日本代表として活躍する姿を期待している。

「1から10まで教えない自主性も明治の良さ。だから、他と比べて個性の強い選手が生まれやすい。人間的にも魅力があって、選手としてキャラクターがある。そんな選手が、ここで育ち、代表として世界で活躍してくれたらうれしい」

創部96年-。紫紺の意味を理解した選手たちが、また新たな歴史をつくっていく。【奥山将志】

◆明大ラグビー部 1923年(大正12)創部。大学選手権優勝は、1位の早大15度に続く13度。日本選手権優勝1度。「重戦車」と呼ばれる強力FWを武器に、80年代から90年代に黄金期を築いた。87年対抗戦での早大との「雪の早明戦」は名勝負として今も語り継がれる。67年間監督を務めた故北島忠治氏の遺訓「前へ」は代名詞に。部のエンブレムはペガサス。

◆W杯の日本代表に選出された明大出身選手 相沢雅晴、藤田剛、河瀬泰治、太田治、中島修二、元木由記雄、吉田義人、赤塚隆、川俣直樹、斉藤祐也、松原裕司、田村優

09年12月関学大戦の後半40分、中央にトライを決める明大SO田村

ラグビーW杯がやってくる

慶大「ルーツ校」伝統があるからこそ1歩先の改革

07年11月、慶大WTB山田(左)は明大WTB星野のタックルを受けながら突進する

<大学と日本代表(1)>

日本のラグビー界は、長く大学が中心だった。早明戦、早慶戦など伝統校同士の対抗戦では、学生やOB、ファンがスタンドを埋めた。70年代から90年代にかけての爆発的なブームは落ち着いたが、今でも日本代表の8割以上は大卒選手が占める。大学と日本ラグビー界、日本代表、そしてワールドカップ(W杯)。過去と現在に迫る。第1回は「ルーツ校」慶大。120年の伝統をベースに世界を目指して変わる。

      ◇       ◇

1899年。慶大の選手たちは、無意識のままに覚える。この年、英国人教員のクラークが学生たちに指導して日本初のラグビーチームが誕生。以来、慶大は他の大学からも畏敬の念を込めて「ルーツ校」と呼ばれる。欧米から伝来したスポーツは数多いが、これほど「ルーツ校」が定着している例はない。それほど、慶大の存在は大きい。

第1回W杯を翌年に控えた86年1月15日、大学選手権優勝の慶大は日本選手権で社会人大会優勝のトヨタ自動車を破った。「ルーツ校」の快挙にファンは沸いたが、その盛り上がりがW杯につながることはなかった。日本代表よりも大学の方が上だった。FBとして日本一に貢献した渡瀬裕司氏は「W杯代表の(SH)生田は『日本代表より慶大のジャージーの方が重い』と言っていた。そんな時代でしたね」と、話した。

慶大は常に伝統を背負ってきた。チーム同士が対戦を決める「対抗戦」方式を守り「アマチュア」であり続けた。日本一メンバーも15人中13人が慶応高出身。花園組がそろう他大学に、常軌を逸した猛練習で対抗した。「地獄の山中湖」で磨く「魂のタックル」。鬼気迫るのは「ルーツ校」の歴史があったからだ。

もっとも、慶大を日本一に導いた上田昭夫監督(故人)はしたたかだった。精神面を表に出しながら、徹底して相手を分析。緻密な戦略で勝利した。「魂だけで勝てるなら、監督はいらない」という言葉を思い出す。渡瀬氏も「真っ先に対戦校の分析を始めたのは慶応。フィットネス専任コーチも早かった」と話した。

W杯代表選手は計6人と決して多くない。対抗戦や大学選手権の優勝回数は早明どころか新興校にも劣る。それでも「常に新しいものを取り入れ、改革しようという意識はあった」と渡瀬氏。代表スタッフなどに人材を送り、側面からサポートをする。根底に「ルーツ」の自負がある。伝統があるからこそ、常に1歩先んじることを目指した。

昨年3月、慶大はOBが中心になって「慶応ラグビー倶楽部」という法人を立ち上げた。ラグビー界では初の試み。「慶応ラグビーの強化」「社会貢献」とともに「日本ラグビー界発展への寄与」をうたう。理事でもある渡瀬氏は「世界も日本も変わっている。日本ラグビーをリスペクトし、慶応も変わっていこうということ」と説明した。

前回のW杯の後、早慶戦の前の決起集会をOBの日本代表WTB山田章仁が訪れた。大学から高校、小学生まで集まった会で、山田は大人気。「自分たちの先輩が活躍した。小学生にとってはヒーローですよ。頂点は日本代表。そこに選手を送れるようにいたい」。サンウルブズCEOとして代表強化の一端を担う渡瀬氏は言った。【荻島弘一】

◆W杯の日本代表に選出された慶大出身選手 生田久貴、村井大次郎、猪口拓、栗原徹、広瀬俊朗、山田章仁

◆慶大蹴球部 1899年(明32)、日本初のラグビーチームとして創部。横浜・日吉のグラウンドにはラグビー発祥の記念碑が立つ。チームカラーは黄色と黒で「タイガー軍団」とも呼ばれる。大学選手権は前身である東西対抗と合わせて5回優勝しているが、上田昭夫監督が率いた創部100周年の99年以来優勝はない。日本選手権優勝1回。今季から元日本代表の栗原徹ヘッドコーチ。

86年1月、日本選手権でトヨタを下し、スタンドで喜ぶ慶大・上田監督(中央)
ラグビーW杯がやってくる

「灰になってもまだ燃える」大野均は40歳の鉄人

15年11月、クラブハウス内の歴代日本代表パネルで自分の名前を指さす東芝・大野

<俺のW杯(5)>

各世代の日本代表中心選手がワールドカップ(W杯)を振り返るシリーズ「俺のW杯」。最終回は、07年大会から3大会連続で出場し、代表キャップ歴代最多98を誇る、ロック大野均(40=東芝)。日本ラグビー界の「鉄人」が、現役を続けるモチベーションと語るW杯の思い出を語った。

  ◇   ◇   ◇  

無心で走り続けた80分間。会場中に響き渡るジャパンコールが背中を押したが、フィジーの背中はわずかに届かず。大野は試合終了後、ホテルに帰ると異変を感じた。点滴の針を腕に刺し、ベッドに横たわり、見上げた天井。脱水症状で7キロ落ちた体重。極限まで追い込んだ。試合には負けたが、妙な達成感を覚えた。

07年大会のフィジー戦で、初めてW杯のピッチに立った。初戦のオーストラリア戦は出場せずに、満を持して臨んだ2試合目。初の大舞台に浮足立つどころか、絶対勝利への責任感と覚悟があった。脱水症状にもかかわらず、なぜか動き続ける自分の体。「ワールドカップはどこかでリミッターを外させてくれる」。29歳の体力が底なし沼になった。

1勝もできないまま、最終戦のカナダ戦で引き分けて14試合ぶりに敗戦を逃れた。その時に込み上げてきた達成感は、帰国後に消え去った。「勝ってたらもっと日本ラグビーにとっていいことが起こっていた。ワールドカップの借りはワールドカップでしか返せない。次も絶対出てやろう」。燃え尽きたものが、再び燃え始めた。

11年ニュージーランド大会を飛び越えて、その時はきた。舞台は15年イングランド大会。11年も最終戦のカナダ戦で2大会連続ドローが精いっぱいだった日本が、初戦の南アフリカ戦で史上最大の番狂わせを演じた。29-32で迎えたラストワンプレー。敵陣でペナルティーをもらうと、同点狙いのエディー・ジョーンズHCのペナルティーゴールの指示を無視してスクラムを選択。先発出場し途中交代でベンチから見守る大野には、試合を通してスクラムで勝てる自信があった。そして逆転のトライ。初めて聞いた勝利のホイッスル。地響きのような大歓声で揺れるブライトン競技場。「日本代表で歴史をつくろう、変えようというキーワードでやってきた。これが歴史を変えることなんだな」。2大会連続同点の借りを歴史的勝利で返した。

15年大会ではもう1つテーマがあった。すでに19年W杯が日本で開催されることが決まっていた。「何かしら結果を残さないと19年ワールドカップの成功はあり得ない」。決勝トーナメント進出はかなわなかったが、日本史上最多の3勝を果たしてバトンをつないだ。

いつ、どこで聞いたかは覚えていない。映画の宣伝のセリフなのは確かだった。「灰になってもまだ燃える」。以来、自分の胸に刻み続けている言葉だ。「ワールドカップがあるからこそ、ワールドカップが終わっても次を見させてくれる。灰になってもまだ燃やさせてくれる」。W杯がある限り、ラグビーへの熱は今も燃え続けている。【佐々木隆史】

◆大野均(おおの・ひとし)1978年(昭53)5月6日、福島県郡山市生まれ。清陵情報高までは野球部で外野手。日大工学部に入学後、先輩から勧誘されてラグビーを開始。日本代表歴代最多の98キャップ。趣味は酒。好きな食べ物はケンタッキーフライドチキン。192センチ、105キロ。血液型O。

ラグビーW杯がやってくる

大畑大介氏が空港で「ついつい言ってもうた」のは

W杯を振り返る大畑氏(撮影・松本航)

<俺のW杯(4)>

各世代の日本代表中心選手がワールドカップ(W杯)を振り返るシリーズ「俺のW杯」。第4回は99、03年大会に名を連ね、後に日本人2人目の世界殿堂入りを果たすWTB大畑大介氏(43=神戸製鋼)です。テレビ出演も数多くこなすラグビー界屈指のスターは、ファン層の拡大を使命にW杯日本大会へと向かいます。

  ◇   ◇   ◇  

2007年8月25日、イタリアで行われたポルトガル戦。自身3度目の晴れ舞台、W杯フランス大会直前の練習試合で大畑の左足が悲鳴を上げた。アキレス腱(けん)断裂-。目標が一瞬にして消え、関西空港へ帰国したのが29日。その場でエースは「桜のジャージーをもう1回着られるようにしたい」と口にし「ハートを熱くしてもらえるラグビーをしてほしい」と欧州の仲間へエールを送った。

そもそも、空港で進退を表明する気などなかった。

大畑 でも、あまりにも出迎えてくださった方々がお葬式みたいな雰囲気で…。チームメートにも伝えていなかった。関空の時はその様子を見ながら「後日言ってもニュースにならない」と考えた。当の本人が「ついつい言ってもうた」と言う方が、面白いわけじゃないですか。W杯前だし、とにかくラグビーに目を向けてもらいたい思いだった。

23歳で初出場した99年W杯では、開催国のウェールズ戦で鮮烈なトライ。「隣の人間にすら、寄っていかないと声が届かない大歓声。『開催国、W杯ってすげえ』と思った」。選手として03年を目指す思いと同時に、別の感情も強まった。

大畑 僕はラグビーの人気と衰退のはざまの世代。子どもの頃に松尾雄治さんの話をしても、周りはよく分かっていなかった。阪神の掛布(雅之)さん、バースさんはみんな分かる。自分たちの村のトップを周りが知らないのが悲しかった。だから、他競技の子どもにも、ラグビーを知ってもらいたいと思ったんです。

選手として旬を迎えていた03年W杯では、オーストラリアのタウンズビルが代表の拠点だった。試合の印象と同等に、温かい思いが大畑の胸に刻まれている。

大畑 縁もゆかりもない小さな街の人たちが人種、言葉を超えて、本気で応援してくれた。それこそ「遠くの親戚より、近くの他人の方が応援してくれる」という感じ。これがW杯だと思った。02年のサッカーW杯でカメルーンを応援する中津江村(現大分県日田市)みたいな雰囲気でした。

最終的にはW杯を控えた11年1月に現役引退。ボロボロの体で戦っていたのは「結局は『W杯で勝たないと』というところに行き着いた。そこで結果を残さないと、人は目を向けてくれない」という理由だった。4年後、世界を驚かせた15年W杯で日本ラグビー界に追い風が吹いた。では、引退しても己にできることは何か。大畑は唯一無二といえる使命を自覚している。

大畑 ラグビーを知らない人に、W杯は「ラグビー村のお祭り」と思ってもらいたい。「近所で何かやっているな」というのが「ほな、ちょっと見てみようか」となれば、面白みも変わってくる。僕はそれを伝えていこうと思っています。

その目線は低くて、力強い。(敬称略)【松本航】

◆大畑大介(おおはた・だいすけ)1975年(昭50)11月11日、大阪市生まれ。東海大仰星、京産大を経て98年神戸製鋼入り。99、03年のW杯に出場し、日本代表58キャップ。16年に日本人2人目となるワールドラグビー殿堂入り。11年引退。19年W杯日本大会アンバサダーなどを務める。

15年9月、ラグビーW杯イングランド大会の開会セレモニーに登場した元日本代表の大畑氏(撮影・Piko)
伊藤華英のハナことば

日本選手権で見た世界で戦うためのレース/伊藤華英

第95回日本選手権が4月2日から8日まで、東京辰巳国際水泳場で行われた。韓国・光州で行われる7月の世界選手権と、ユニバーシアードの選考会を兼ねた大会だ。

私自身も現役時代、この会場には「戦いに行く」という闘志を持って向かったことを思い出す。いわゆるスイマーの聖地だ。ジュニアオリンピックも行われていて、小さいときからここで泳ぐのが夢、目標だった。来年のオリンピック会場は、すぐそばに建設中のアクアティクスセンター。新旧の「聖地」での、これまでの戦い、これからの戦いのことを思うと、なんだか感慨深い。

男子200メートル背泳ぎ決勝後、笑顔の入江(手前)と砂間(撮影・滝沢徹郎)

そんな平成最後の日本選手権の結果はどんなものだったか。大会後に平井伯昌ヘッドコーチが言ったように、「世界レベルの選手はいるが、その次の選手がおらず層が薄い」と懸念される結果となった。

私自身も大会序盤はすごく心配だった。

競泳は基本的に、選考会のレースで2位までに入り、日本水泳連盟が定める派遣標準記録を突破すれば世界大会にいける。だから、そのたった2枚の切符を目指してライバルと切磋琢磨する。

5日目までは、4人しか派遣標準記録を切っていなかった。「オリンピック前年度はこんなものだったかな」と心の中で感じていた。来年、東京オリンピック・パラリンピックがあることはもちろん選手も意識しているだろう。

オリンピック前年度といえば、ライバルの飛躍を予想して予選からいい記録を出して、準決勝では決勝のレースを想定して、決勝はどこまで日本記録を更新できるか、みたいな感じだったかなと振り返ったりもしていた。

結果は、個人種目10人、リレー7人の計17人のスイマーが日本代表に選ばれた。空気が変わったなと思ったレースは、6日目の男子200メートル背泳ぎ。12度目の優勝を果たした入江陵介選手、2位の砂間敬太選手が2人で派遣標準記録を切ったときだった。

しっかり2枚の切符を埋めることができ、とても安心した。砂間選手は個人メドレーを棄権し、背泳ぎに集中した成果が出たというところ。本人も自信になったに違いない。

派遣標準記録は、とても厳しく設定されている。世界で戦うという前提があるからだ。ただし、だれが見ても代表入りしたかどうかが分かる。だから選ばれた選手は日本代表の誇りを持てる。「この厳しい選考を戦い抜いた仲間」というチームワークが生まれる。

男子200メートル自由形で連覇した松元克央

男子200メートル背泳ぎ以外で私が注目した代表は、松元克央選手だ。男子200メートル自由形を1分45秒63で制した。自由形で派遣標準記録を切ることは、すごく大変なことだ。指導するのは鈴木陽二コーチ。私が現役時代、12年指導を受けたコーチ。松元選手は100メートル自由形でも3位に入り、リレーの代表にもなった。そんな選手の活躍のことを考えていたら、鈴木先生が言っていた言葉をふと思い出した。

「ユニクロの社長が言っていたぞ。日本で1番になったら、世界で勝負するのは当たり前だと」

鈴木コーチは、いつも世界を見据えていた。

そんな世界を見据えたレースがもう1つ。

試合前日のアップから自身が持つ「世界記録を切りたい!」と公言していた渡辺一平選手だ。男子200メートル平泳ぎ決勝は、準決勝の泳ぎとは打って変わり、2分7秒02の好タイムで優勝した。もちろん世界選手権の派遣標準記録を突破して、代表権を得た。世界記録を狙って、前半から飛ばしたレース。世界を意識した、いい内容だった。

男子200メートル平泳ぎ決勝で泳ぐ渡辺一平(撮影・滝沢徹郎)

2位に入った小日向一輝選手も素晴らしいレースだった。同じ所属の松元選手から、大きな刺激をもらっていた。また、男子50メートル自由形準決勝で塩浦慎理選手が0.2秒も日本記録を更新した。決勝ではタイムを落としてしまったが、こういうレースが他の選手のやる気に火を灯すのだ。50メートルの0.2秒は本当に大きい。最後まで伸びのあるストローク。素晴らしかった。

男子200メートル平泳ぎで2位に入った小日向一輝(奥)は渡辺と握手を交わす(撮影・滝沢徹郎)

本当の緊張感を持ったレースは、年に2回しかない。日本選手権と世界大会だ。貴重な日本選手権。無駄にはできない。

「世界と戦うのは当たり前」

鈴木コーチの言葉が、頭に浮かんだ大会だった。

また私が挫折をしたとき、2009年に亡くなった古橋広之進先生にいただいた言葉。

「なんのために泳ぐのか、哲学を持って泳げ」

19歳の時だったが、今も心に残る言葉だ。

現役時代にかけてもらう言葉、経験すべてが未来へつながる。

今この時を楽しんで、思いっきり自分の競技人生を全うして欲しいと心から思った大会だった。がんばれ!トビウオジャパン!

(伊藤華英=北京、ロンドン五輪競泳代表)

チアの木曜日

チアリーダー飛田野芽生、夢のNFLに挑戦

チアリーディングやチアダンスのチーム、選手などを取り上げる「チアの木曜日」。第1回は新潟・アルビレックスチアリーダーズの飛田野芽生(ひだの・めい=20)を紹介します。米NFLダラス・カウボーイズの専属チアリーダーオーディション(5月18日~6月1日)を受けるために今月1日、成田空港から渡米しました。

飛田野芽生は5歳の頃からの夢に挑戦する

飛田野が、アルビレックスチアスクールに通い始めた5歳の頃から抱いていた大きな夢に挑戦する。彼女の挑戦を後押ししたのは、2人の元NFL日本人チアリーダーだ。

1人目はアルビレックスチアリーダーズから初めてNFL入りした柳下容子さん。飛田野にとっては憧れの先輩だ。彼女の存在がきっかけで、飛田野は「大人になったら米国へ行ってみたい」と思うようになったという。

もう1人は、元ダラス・カウボーイズチアリーダーで現在、アルビレックスチアリーダーズのチーフディレクターとして飛田野を指導する三田ジョンストン智子さん。

三田さんは昨秋、夢を再確認するために飛田野を連れ2人で渡米した。ダラスでは本拠地のAT&Tスタジアムを見学し、10万人の観客の前でパフォーマンスする醍醐味(だいごみ)を肌で感じた。

三田さんから「次に私がダラスに来るのは芽生が合格してから」と言われた飛田野は、「3~4年(アルビチアの)トップメンバーを経験してから」と思っていた気持ちに変化が生まれ、今回のオーディション挑戦を決意した。三田さんの期待と愛情が飛田野の背中を押した。

Bリーグ新潟の試合会場で応援パフォーマンス

飛田野の挑戦について三田さんは「これ以上、うれしいことはありません。本人の持っている運と可能性でしか測ることはできないですが、少しでも、確実に1歩1歩、歩んでいける道を応援していきたい」。

このエールを胸にしまい、飛田野は夢の舞台、米国に旅立った。

「行ってきます」笑顔で手を振る

◆飛田野芽生(ひだの・めい)1999年(平11)2月15日生まれ、新潟市出身。新潟清心女子高ダンス部時代は、1、3年時に全日本高校・大学ダンスフェスティバルに出場。17年7月からアルビレックスチアリーダーズに所属。162センチ。

ラグビーW杯がやってくる

残り20分の大きな壁/元日本代表CTB元木由記雄氏

02年5月、ロシア戦でパスを出すCTB元木

<俺のW杯(3)>

ワールドカップ(W杯)経験者が語るシリーズ「俺のW杯」の第3回は、明大時代の91年大会から4大会連続でメンバー入りした元日本代表CTBの元木由記雄(47=現京産大ヘッドコーチ)です。幾度となく、強豪国と接戦を演じながらも「残り20分の壁」に阻まれてきました。届きそうで、届かなかった1勝-。その歴史を、振り返ります。

  ◇   ◇   ◇  

その時ふと夢を見た。ただ夢は夢であり、それから約25分後に会場に響くノーサイドの笛で目覚めると、現実はやはり残酷だった。

03年10月12日、W杯オーストラリア大会。日本の初戦はスコットランドだった。フランカー箕内主将、NO8伊藤らが体を張り、タックル成功率は相手を上回る82%。失点を最小限に止めた前半は6-15で折り返した。9点差を追う後半14分、SOミラーとCTB元木のループで相手防御を崩すと、最後はWTB小野沢が飛び込んでついに4点差。大波乱の予感を察した観衆はざわめき始めていた。

日本の負の歴史が変わるかもしれない-。そんな考えが元木の脳裏をかすめた。しかし、後半30分すぎに3連続トライを浴びる。結果は11-32の完敗だった。

「(小野沢の)トライの瞬間は『行ける』という思いと同時に、体がキツくなり始めていたんです。相手との力の差はあっても、ラスト20分までは(強豪と)戦えた。でも残り20分で相手を上回り、突き放す方法が確立されていなかった」

続く2戦目のフランスにも、後半途中まで19-20と粘りながら最終スコアは19-51。振り返れば95年南ア大会のアイルランド戦も後半20分まで21-26と接戦を演じながら、終盤に力尽きて28-50で敗れた。「残り20分」が大きな壁だった。

明大時代の91年に初めてW杯メンバー入りしてから、4大会連続で出場。世界の壁を破れぬまま、その03年が最後のW杯になった。

「どうやったら世界のトップ10の国に勝てるのか。ジャパンの時はずっと悩んでいました。考えても、考えても答えは出なかった。僕らの時代は(体力差で劣る)フィジカルを避けて、小手先で勝負をした。でも、小手先で勝てるほど世界は甘くない。(15年大会で)南アに勝ったエディー(ジョーンズ)がすごいのは、弱みを強みに変えたこと。勤勉な日本人にフィジカルやセットプレーで勝つことを求めて結果を出した」

日本代表キャップ数は79。長い現役生活で1つだけ、忘れたい試合がある。95年大会、17-145でニュージーランドに大敗した試合に、元木は出ていた。

「代表に誇りを持っていましたから。出ている選手には、責任の重さがあるんです。『はよ、終わってくれ』。ラグビーをしていて、そう思ったのは、あの試合だけ。全てが通用しない。辛い試合やった」

届きそうで、決して届くことのなかった世界との差。もがき、苦しみ、悩んだ時間があったからこそ現代表へ伝えたいことがある。

「サッカーは02年日韓大会で結果を残して、文化が根付いた。ラグビーも自国開催で結果を残すことができれば、新たなスタートを切ることができる。日本が成長していることを、世界に示してもらいたい」

心からそう願っている。(敬称略)【益子浩一】

◆元木由記雄(もとき・ゆきお)1971年(昭46)8月27日、東大阪市生まれ。大阪工大高(現常翔学園)で全国制覇。明大で3度の大学選手権優勝。94年に神戸製鋼入りし7連覇を達成。日本代表79キャップ。10年に引退。現在は京産大のヘッドコーチ。

元木由記雄氏(18年11月撮影)
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渡辺、瀬戸、大橋が挑む世界水泳の強力ライバルたち

左から渡辺一平、瀬戸大也、大橋悠依

衝撃のラストスパート、フェルプスの後継者、鉄の女。日本水連は9日に世界選手権(7月、韓国)代表17人を発表した。同選手権で金メダルを獲得すれば、東京オリンピック(五輪)代表に内定する。日本の金メダル候補は男子平泳ぎ渡辺一平、同個人メドレー瀬戸大也、女子個人メドレー大橋悠依の3人といえるだろう。その3人には強力なライバルがいる。

<1>男子200メートル平泳ぎ 渡辺のライバルは同じ97年生まれのアントン・チュプコフ(ロシア)。自己ベストは渡辺が世界記録2分6秒67、チュプコフが2分6秒80と接近している。得意なレースも対照的だ。渡辺は同じペースで泳げる特長を生かした先行型、チュプコフはラスト50メートルで31秒台を出すスパート型。16年リオ五輪は渡辺が6位、チュプコフは銅メダル。17年世界選手権は渡辺が銅、チュプコフが金。渡辺は7日の日本選手権でセカンドベストの2分7秒02を出したが「このタイムでは世界選手権で金メダルはとれない」といった。その言葉は謙遜ではなく、まぎれもない事実だろう。

<2>男子400メートル個人メドレー 瀬戸は16年リオ五輪、17年世界選手権、18年パンパシフィック選手権で銅メダル。その3大会で瀬戸を上回ったのが同じ94年生まれのチェース・ケイリッシュ(米国)だ。米国では怪物フェルプスの後継者として期待される。ケイリッシュの自己ベストは4分5秒90。この数字は瀬戸の4分7秒99、萩野の4分6秒05を上回っている。16年リオ五輪は金の萩野を猛追したが、銀メダル。無念を晴らす舞台を東京五輪と定めて、リオ後は主要国際大会で瀬戸と萩野に連勝中。3種目目の平泳ぎが得意で驚異的なスピードで巻き返してくる。しかも苦手だった前半のバタフライ、背泳ぎも強化。瀬戸が「頭のねじをぶっ飛ばしたい。『ばかじゃないか』という練習をしないと」と危機感を持つようになったライバルだ。

<3>女子個人メドレー 大橋に立ちはだかるのが「鉄の女」カティンカ・ホッスー(29=ハンガリー)だ。大橋の自己ベストは200メートルが2分7秒91、400メートルが4分30秒82。ホッスーは200メートルが2分6秒12、400メートルが4分26秒36でともに世界記録。個人メドレーは16年リオ五輪で2冠、世界選手権は15年から3大会連続2冠。圧倒的な実績を誇る。ただ大橋は17年世界選手権で200メートル銀メダルの際に、ラスト50メートルの自由形で先行するホッスーとの差をつめていた。ホッスーの世界記録は200メートルが4年前、400メートルが3年前のもの。「鉄の女」の壁を破るのは簡単ではないが、チャンスはある。

日本は17年世界選手権で金メダルなしだった。五輪前年の世界選手権は、海外勢も4年に1度の祭典を見据えて力を入れてくる。ライバルたちを打ち破れるか、3人の爆発に期待したい。【益田一弘】

◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の43歳。大学時代はボクシング部。五輪取材は14年ソチ大会でフィギュアスケート、16年リオ大会で陸上、18年平昌大会でカーリングなどを取材。水泳は16年11月から担当。

ラグビーW杯がやってくる

3度のW杯で痛感した世界との差 95年主将薫田氏

薫田真広氏(02年12月撮影)

<俺のW杯(2)>

各世代の元日本代表中心選手がワールドカップ(W杯)を語るシリーズ「俺のW杯」。第2回は、フッカーとして91年第2回大会から3大会連続で出場した、現15人制男子日本代表強化委員長の薫田真広氏(52)。主将として臨んだ95年大会でニュージーランドに17-145と大敗。歴史的敗戦で痛感した、日本と世界の差を振り返った。

  ◇   ◇   ◇  

後に「ブルームフォンテーンの悲劇」と呼ばれる歴史的敗戦にも、ピッチに立つ薫田の心は、どこか穏やかだった。「点差が開いていく中で、ベンチにも策がなかった。じゃあ、オールブラックスとやれる1分1秒を逃げずにチャレンジしようと。何点取られても責任は取る。トライを取りにいこうという話をした」。

主将として、覚悟を決めた真っ向勝負。結果的に2トライこそ奪ったが、王国の力は想像のはるか上をいっていた。キックオフのボールを、ジャンパーをリフトしてキャッチ。初めて見るプレーに驚いていると、世界的名手のNO8ジンザン・ブルックから20メートルを超す強烈なパスが飛ぶ。強さと速さを兼ね備えたBK陣には、スペースを面白いように走られた。「(CTBの)元木に『ゆきお! 止めれるか?』って聞いたら、『あきません!』って。そのぐらい、スキルとスピードに差があった」。

結果を受け入れる準備は出来ていた。だが、試合後の会見で、薫田は自身の判断が正しかったのかを考えさせられる事態に直面した。翌年のプロ化を前に、「ラグビー」が進むべき道を模索していた95年。次の99年大会から参加チームが16から20に拡大される構想もあり、海外メディアからの厳しい声が薫田に集中した。日本の大敗が、「さらに力の差の大きい対戦が生まれる」という危機感を広げるきっかけとなったのだ。

あの敗戦から24年-。00年に現役を引退し、指導者としても実績を残した薫田だが、「145」という数字が頭から消えることは決してなかった。

「145点というスコアがどう影響を及ぼすか、自分には考えられなかった。だが、あの試合は日本ラグビーに負の遺産を残し、自分の判断が正しかったのかという思いもずっと残った。だから、求められるうちは日本ラグビーのためにやろうと決めた」。

3度経験したW杯。薫田にとって、それは日本と世界の差を知る舞台でもあった。特に印象に残っているのは、95年大会のウェールズ戦後、相手の分析担当者からかけられた一言だ。「極端に言えば、私たちはあなたがどんな食べ物が好きかも知ってます」-。W杯の位置づけ、意識の違い。そこにも日本が勝てない理由があったと薫田は語る。

日本は、15年大会の歴史的3勝で世界との差を縮め、自国開催のW杯で、初のベスト8進出を目指す。強化の責任者としての挑戦に、言葉には力がこもる。「今はすべての情報が筒抜けになる時代だし、情報合戦に関してもしっかり準備したい。ヘッドコーチがやりたい環境をどう作るか。それが、自分の仕事だと思っている」。(敬称略)【奥山将志】

◆薫田真広(くんだ・まさひろ)1966年(昭41)9月29日、岐阜県各務原市生まれ。岐阜工高-筑波大-東芝府中。フッカーで代表キャップ44、W杯3度出場。00年に現役を引退。02年に東芝の監督に就任しトップリーグ3連覇、U-20日本代表監督なども務めた。現在は15人制男子日本代表強化委員長。

ピッチマーク

河本結、畑岡追い続け夢曲げず諦めずつかんだ初V

河本結(2019年3月31日撮影)

まだ高校1年だった2人の少女は、こんな日が来ることを想像していただろうか-。

19年3月31日。宮崎・UMKカントリークラブで開催されたアクサ・レディースで、ツアー本格参戦1年目の河本結(20)が初優勝を飾った。

それから約16時間後。

遠く離れた米カリフォルニア州・アビアラゴルフクラブであった米ツアー・起亜クラシックを制したのは、畑岡奈紗(20)だった。

およそ5年前に出会った2人は、偶然にも、日本とアメリカで同じ日に優勝した。

中学を卒業すると、河本は一時期、愛媛の親元を離れた。本格的にゴルフの腕を磨くため、茨城県にある日本ウェルネス高に進学。わずか数カ月で愛媛に戻り、松山聖陵高に編入することになったが、振り返れば、その短い期間がゴルフ人生の転機になった。

茨城出身の畑岡と出会い、国体の合宿で過ごした時間を、今でも覚えている。

一緒に風呂に入った時のこと。まだ中学を卒業したばかりの畑岡は、時計の針を見ながら熱い湯船につかっていた。しばらくすると、冷水に体を沈める。そんなことを何度か繰り返すのが不思議で、河本は尋ねた。

「何で、そんなことをするの?」

15歳の畑岡は、こう答えたのだという。

「明日にね、疲れを残したくないから。こうすると、疲れが体に残らないんだよ。疲れがたまると、プレーに影響が出るでしょう?」

食事会場では、好きなものだけを食べるのではなく、栄養バランスを考えながら皿に盛りつけていたという。そんな姿を見て、河本は大きな影響を受けた。

「あの頃から、ナサ(奈紗)は、私たちとは、ゴルフとの向き合い方が違っていました。お風呂で、みんながガールズトークをしていても、ナサはずっと交代浴を繰り返していましたから。食事は、体が酸化しないようにとか、次の日に疲れが残らないことを考えて、食べていました」

高校時代から高い意識を持ち続けてきた畑岡は、やはりこの世代の先頭を走る。まだ20歳ながら、重ねた勝利は国内3勝、米ツアー3勝。あの日から、ずっと河本は畑岡を追い続ける。

17年末にあった第3QT(予選会)では、わずか1打及ばずツアー出場権を逃した。遠回りや、挫折、足踏みをしながらも、1歩ずつ前へと進んできた。それは、畑岡という大きな存在があったからだろう。

初優勝したアクサ・レディースの会見で、河本はこんな思いを語った。

「小さい頃からの夢を、諦めずに、曲げずに、やってきました。どん底を味わっても、泥水を飲んでも、一生懸命やっていたら、いつか夢はかなうと思っていた。やっとひとつ、夢がかなった。次の目標は、来年には賞金女王。3年かけて、全米女子オープンを取る準備をしています」

畑岡に追いつき、追い越す日は訪れるだろうか。

いつか、2人が米ツアーで優勝争いをする日を、楽しみにしている。【益子浩一】

(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

畑岡奈紗(2018年5月2日撮影)

ラグビーW杯がやってくる

第1回W杯主将林敏之氏「勝ち方が見えず悶々と」

<俺のW杯(1)>

9月開幕のW杯日本大会に向け、4月から週5回にグレードアップした連載「ラグビーW杯がやってくる」。前週の「記者が振り返るW杯の歴史」に続き、今週は、ワールドカップ(W杯)を経験した各世代の日本代表中心選手が、「俺のW杯」と題して当時を振り返ります。初回は87年の第1回大会で主将を務めたロック・フランカーの林敏之氏(59)です。

日本代表ジャージーを身にまとう林敏之(本人提供)

トレードマークのひげをさすりながら、神戸市内の一室で林は32年前の記憶をゆっくりと言葉にした。5月22日、ニュージーランドのオークランドで幕を開けた第1回W杯の数週間前。林ら日本代表は46歳の突進を真正面から受け止めた。

林 「このおっさん、えぐいな」「すごいな」って思いながら練習してたね。「ジャパン相手によぉ来るなあ」っていう感じでね。

予選がなく、16カ国の招待だったW杯の日本代表は26人。当時、戦術的交代が認められていなかった影響もあったが、遠征メンバーはスタッフ4人を加えた計30人だった。短期間だった国内での直前合宿では、今は78歳となった監督の宮地克実が入り、15人対15人の実戦練習が行われていた。

1年前の1月、新日鉄釜石の全国社会人大会8連覇を阻止した神戸製鋼で、林は海外プラントの資材調達を担当していた。「遠征前はみんな残業やった。1カ月抜けるなら『その分、仕事をしてから』っていうのが当たり前やった」。長期間の代表活動など考えられない時代であり、監督が強度の高い練習に参加する環境も想像の範囲内だった。

数々のテストマッチの経験から、国を背負う魂はあった。だが、記念すべき初戦で米国に18-21の黒星。トライ数は同じ3本だったが、キックがことごとく外れた。「思えば、初戦が勝てる試合やった」。第2戦のイングランドには7-60で大敗し、最終戦は大会を共催していたオーストラリアに23-42。91年の第2回W杯ではジンバブエに初勝利した一員となったが、欧州や南半球の強豪国との差を戦う度に痛感していた。

林 当時は日本のラグビーの勝ち方が見えず、悶々(もんもん)としていたね。差をどう埋めたらいいのか、分からずにずっとやっていた。差は「1チャンスをものにできるか」だったと思うけれど、そのための高レベルな試合、W杯までのピーキングができていたのか。昔と今は全然違う。でも(15年W杯の)エディー(ジョーンズ・ヘッドコーチ)の準備を見ていると、第1回の頃はのんびりしていたよね。

W杯を振り返る林敏之氏(撮影・松本航)

大会前は「よくわからん」と思っていたW杯は、すぐ「みんなが目指すもの」になった。その発展を肌で感じた経験があるからこそ「西洋と南半球以外でやる初めてのW杯。世界のラグビーの、1つの分岐点になる。日本はアジアの代表としてやらないといけない」と大会全体の成功を願う。

現在の肩書はNPO法人「ヒーローズ」会長。小学生世代の大会運営などを担い「人生のヒーローが、ここから、いっぱい生まれてほしい」と尽力してきた。圧倒的な強さで「壊し屋」と呼ばれた男はラグビーの裾野に立ち、国を背負う後輩からの熱い風を待っている。(敬称略)【松本航】

◆林敏之(はやし・としゆき)1960年(昭35)2月8日、徳島県生まれ。徳島・城北高、同大を経て神戸製鋼。W杯は87、91年と2大会連続出場。日本代表38キャップ。92年には東洋人初となる英国の名門バーバリアンズに選出。36歳で引退。異名は「壊し屋」、愛称は「ダイマル」。

ラグビーW杯がやってくる

W杯最悪1259失点も急成長で縮まる強豪との差

15年10月13日付日刊スポーツ東京版

<データで振り返るW杯>

日本代表の戦いを振り返ってきた今週の締めくくりは、「データで振り返るW杯」。これまで全8大会に出場している日本は全28試合を戦い、4勝22敗2分け。総得失点数やトライ数、連続出場など、過去8大会のデータを拾い集め分析した。

第7回大会までは24試合でわずか1勝という暗黒時代が続いた日本だが、15年の第8回大会で3勝を挙げ、自国開催でも躍進が期待される。

<1>総失点、総得点

8大会すべてに出場してきた日本は、全28試合でワースト1259失点。試合数が最も多いニュージーランド(NZ、50試合)は682失点で日本の約半分(54%)だ。現在1000失点を超える国は日本の他に、ナミビア(1148)、ルーマニア(1068)の3カ国だが、初めて1000失点を超えたのは第7回大会での日本だ。1試合平均44・96点はナミビアに次ぐ2位で、最も少ないオーストラリア(13・46点)と比べて30点以上の差がある。ただ悲観するデータばかりではなく、第4回大会までの12試合の平均は50・10点に対して、第5~8回大会までの16試合では41・06点と10点近く減少。さらに前回大会だけに限れば、25・00と第4回大会までの半分以下になっており、ディフェンス力は確実に上がっている。

一方で総得点は526点で1試合平均は(18・79点)で13位。1位のNZ(2302点)の1試合平均は46・04点で日本の約2・5倍だが、こちらも第4回大会までの平均が18・00点に対し、第5~8回では19・38点と増えている。前回大会だけに限れば、24・50点と6点近くも得点力がアップした。

<2>トライ数

日本は8大会で60トライを奪った。最多は第1、2回大会で活躍した朽木の4。3トライは唯一3大会連続(03~11年)のトライを挙げた小野沢宏時ら6人。日本代表候補で、現在2トライのリーチ、マフィは、今大会で2トライを取れば、日本代表最多に並ぶ。1トライは25人。チーム最多はNZ(311)で、個人最多は南アフリカのハバナ(15)。近年外国人が多くなった日本代表だが、トライを挙げた延べ38人のうち、28人が日本人(日本国籍を取得した選手を含む)だ。

<3>連続出場

9大会連続は日本を含め11カ国。ワールドカップ(W杯)日本代表に連続で選出されたのは、4大会が最多で元木由記雄と松田努の2人(第2回大会はともに出場なし)。3大会連続選出は13人。最多試合出場は3大会に出場した小野沢の12試合。続いてトンプソンが10試合、元木と大野均と薫田真広が9試合となっている。日本代表候補に選出されている選手の中では、リーチが8試合、堀江翔太と田中史朗が7試合と続く。

初のアジア開催となる今年のW杯。どんな記録が生まれるだろうか。【松熊洋介】

W杯総失点と総得点
日本のW杯全成績
ラグビーW杯がやってくる

「大会史上最強の敗者」日本代表は誇りを手に帰国

15年9月21日付日刊スポーツ東京版

<記者が振り返る W杯の歴史(4)>

「記者が振り返るW杯の歴史」の第4弾は、15年イングランド大会。ラグビー界を超え、スポーツ界に衝撃を与えたジャイアントキリングが起きた。W杯で24年間も勝ちがなかった日本代表が、優勝候補の南アフリカ代表に34-32で逆転勝ちを収めた。語り継がれる場面となったのは“最後のスクラム”。同点のチャンスを捨て、長く不利とされてきたフィジカル勝負をあえて選んだ。W杯で初めて4戦で3勝しながら1次リーグで敗退したチームに。敬意を込めて「大会史上最強の敗者」と呼ばれた。

 ◇   ◇   

3つ選択肢があった。フランカーのリーチ主将が静かに、フッカー木津に歩み寄る。両足はつっている。それでも表情を変えず、両手を腰に当てた。

「スクラム、いける?」

木津は答えた。

「スクラム! スクラムいこ!」

後半40分、29-32。パワーでは世界一とうたわれた南アフリカに、ラストプレーで真っ向勝負をかけた。先発FWの平均体重だけを見ても、日本の109キロに対する南アは約117キロ。ブライトン・コミュニティ・スタジアムは、満員2万2920人の観衆のおののくようなジャパンコールで埋め尽くされた。

 ◇   ◇   

南アは確実に日本を見下していた。スタメンの15人からは、明らかに主力が何人も抜けていた。3度目の優勝への長い道のりを見据えて1次リーグをチーム作りの場にもする国と、かつてジンバブエに1度勝っただけの国。南アからすれば当然の采配だった。前半を終えて10-12という接戦を演じてなお、日本が勝つ予感はなかった。

ただ、日本には周到な準備があった。9月の開幕を見据えて4月から異例の長期合宿を組み、朝5時からのウエートトレーニングを含む1日3部練習を繰り返した。タックルと起き上がりを繰り返すつらいボール争奪戦の練習には「ビート・ザ・ボクス(ボクスは南アの愛称)」と名をつけ、真夏でも続けた。海外出身選手がいても日本の強みである協調性が生まれるよう、全員が君が代を歌えるようにした。試合前には各自が同じポジションの相手選手を分析し、ホワイトボードに書き寄せた。

何度でもタックルしては起き上がり、食らいついて迎えた後半40分。ジョーンズHCの指示は同点で勝ち点1を得るだめのペナルティーゴールだった。対して、リーチ主将が選んだのは“白か黒か”のスクラムだった。この決断を後押ししたのが木津だった。

ラインアウトは選ばなかった。投げ手である木津にしかない緊張があった。

「もし(ラインアウトで)投げてまっすぐいかんと反則なんてとられたら、日本に帰れないなと。個人的にそんな気持ちもあった。それで『こら、あかん』と。いや、緊張しますよ、あれはほんまに」。

終わった後だからこそ周囲を笑わせるように話したが、経験のない重圧だった。

控えの選手は、試合が始まったら途中出場のための準備でもボールに触れないルールだった。その日の自身の感触を十分に把握できているか、疑問が頭をよぎった。もしも自分の1投が数センチでもそれれば、すべてが水の泡になる。押しつぶされそうなほどのプレッシャーを「スクラムいこ!」の大声に押し込めた。

南アの土俵で勝負するというリスクの選択には、ぎりぎりの精神状態で命運を託された選手の揺れ動く感情があった。ジョーンズHCの指示を超えた「選手の自立性」が称賛された決断。背景にあるのは、決して前向きな気持ちだけではなかった。不安定な要素が絡み合い、それが紙一重で勝利をたぐり寄せることもある。それもまた、紛れもない事実だ。それでも、主将の決心を後押しする「スクラムいこう」の声の主は木津でなければいけなかった。木津は、勝負師の性を持つ選手だった。

 ◇   ◇   

小学生時代から大柄で、中学まで打ち込んだ相撲では無敵の存在だった。育った東大阪は当時、いわゆるチンピラが多い街だった。木津の存在を聞きつけた他校の悪童たちが「木津ってのはどいつだ」と学校までバイクでおしかけることも多々あった。

相撲に集中していた木津はうんざりしていた。焦る教師の制止を「いいよ、俺がいけばいいんだろ」と気にもとめず、校門まで1人出て行くと「ここでは迷惑だから、放課後にしてくれや。必ず行くから」と諭した。

中学生で身長180センチ、筋骨隆々。初めて対面した悪童たちがひるむ表情を幾度となく見てきた。「約束の場所に行って相手がいたことは1度もなかった」。拳を使わずとも、顔つきと振る舞いで“勝つ瞬間”を感じ取る力が自然とついていた。

あの瞬間。木津には、スクラム勝負を仕掛けられた相手の表情が引きつるのが分かった。手応えがあったのは事実。そこまで10度あったスクラムで、8本あった日本ボールの確保率は100%だった。極限の緊張状態でそんなデータは頭にはない。不安があるのは当然。それでも腹を決めた。研ぎ澄まされた感覚に、突き動かされた。「仮に同点で終わっても、日本の歴史は変わらない。勝つか負けるかやろ、と」。

リーチ主将はかつてこう言った。「ラグビーは、ルールのあるピッチ上のケンカ」。2人は東海大時代からの旧知の友。ピッチで“殴り合い”を始める前に勝利への道を感じ取った男と、その言葉を最後の決め手とする勇気を持った男が、南アフリカを打ち破る力をジャパンにもたらした。

 ◇   ◇   

敗退が決まった翌日。穏やかな日差しの中、宿舎の中庭に多くの選手が集まっていた。長期合宿のスタートから指揮官に禁じれていた酒が解禁され、テーブルにはビールが並んだ。ある選手は青く腫れ上がった人さし指でジョッキをつかみ、掲げた。アイシングを膝上の大きなアザに当て、歩きづらい選手も。そこにグラスを渡す選手のサンダルからのぞく足の指は、度重なるモールの練習で爪がぼろぼろに割れていた。解散するW杯チームが交わした、最初で最後の杯。時間、体…。すべてをささげた者たちによって、日本代表は誇りを手にした。【岡崎悠利】

ラグビーW杯がやってくる

NZ英雄カーワンHC指揮で手応えも日本は勝たず

11年9月11日付日刊スポーツ東京版

<記者が振り返る W杯の歴史(3)>

「記者が振り返るW杯の歴史」の第3弾は、11年ニュージーランド(NZ)大会。87年の第1回ワールドカップ(W杯)でトライ王に立った元NZ代表のジョン・カーワン・ヘッドコーチ(HC)が2大会連続で日本代表を率い、2勝を目標に掲げながら1分け3敗だった。20年ぶりの勝利は逃したものの、強豪フランスを本気にさせ、世界と戦うかすかな手応えをつかんだ大会だった。

  ◇   ◇   ◇  

8年前の日本には、強くなる予感のようなものがあった。ただそれはあくまでも予感であり、決して確信に変わることはなかった。

11年9月10日。オークランド郊外のノースハーバースタジアムで「ジャパン! ジャパン!」の大合唱が起きた。W杯初戦は優勝候補に挙げられたフランス。現地の熱狂的な観衆は、欧州の強豪を見に来ていた。予想通り11-25のフランスリードで終えた前半、日本への声援は皆無。だが日本は後半8分にSOアレジのトライとゴールが決まり、同17分にはPGでついに21-25の4点差に迫った。状況は一転し、フランスがボールを持つだけでブーイングが起きた。興奮した現地の老夫婦が記者席の窓をノックし、日本人記者にこう言ったのを覚えている。

「素晴らしい。日本がこんなに勇敢だとは、全く知らなかった」

W杯過去1勝の弱小国が見せたひたむきなタックル、全員でボールをつなく姿は現地の人の胸を打った。

それでも相手を本気にさせると、差は明らかだった。残り15分で3連続トライを許し結局は21-47。7点差以内に与えられるボーナス勝ち点も逃したが、かつてない手応えを得ていた。

NZの英雄でもあるカーワンHCは、母国での大会を前に選手にこう説いた。

「私が出た最初のW杯(87年第1回W杯)は記者が2人だけだった。ラグビー(の方向性)がどこに行くかすらも分からなかった。でも周りからは『人生最大のイベントだ』と、『結果を残すことで判断される』と。その通りだった」

当時、注目度は高かった。会見には日本、海外も含め50人以上の報道陣が集まった。勝ち方を知らない選手へ、同HCは結果を残すことの重要性を強調したが1勝は簡単ではなかった。

2戦目は開催国で当時世界ランク1位のNZ。日本は残るトンガ、カナダ戦で2勝するために主力を温存した。勝負を捨てた試合は13トライを浴びて7-83の大敗。3戦目のトンガは07年から5連勝中だったが、自信を失ったチームはミスを連発し18-31で負けた。最終戦のカナダには23-23の引き分け。1分け3敗の未勝利。WTB小野沢の言葉は印象的だった。

「簡単に(W杯は)勝てない。これまでも勝ててこなかったから、今がある。『いつも通りやればきっと勝てる』は、いつも通りではない。今までも勝てていないのですから」

屈辱にまみれた大会でも、唯一の希望はあった。あのフランスを、残り15分まで追いつめ、本気にさせたという事実。だが、4年後に日本が世界を驚かすことになるとは、まだ誰も気づいてはいなかった。【益子浩一】

◆第6回(07年、フランスなど)日本は元ニュージーランド代表のカーワン監督のもと、箕内拓郎が2大会連続で主将。大敗した初戦のオーストラリア戦からフィジー、ウェールズと連敗も、最後のカナダ戦で引き分け、W杯連敗を13でストップ。WTB小野沢、CTB大西ら。南アフリカが2度目の優勝。

◆第7回(11年、ニュージーランド)前回大会ベスト12が予選免除。2大会連続でカーワンが監督を務めた日本は、フランス、ニュージーランド、トンガに3連敗。最終戦でカナダと前回大会に続く引き分けとなり、またしても勝利を逃した。フランカー菊谷崇主将、SH田中史朗、HO堀江翔太ら。優勝はニュージーランド。

07年9月27日付日刊スポーツ東京版
ジョン・カーワン氏
ラグビーW杯がやってくる

「国辱」 すべてが“アマ”当然の145失点

<記者が振り返る W杯の歴史(2)>

「記者が振り返るワールドカップ(W杯)の歴史」の第2弾は、日本代表の苦難に触れる。95年6月4日、第3回W杯南アフリカ大会1次リーグ(L)第3戦で日本はニュージーランドに17-145と大敗を喫した。最多失点など、現在でも残るW杯史上のワースト記録を羅列。小薮修監督の下、SO平尾誠二らスター選手を集めながら1次L2連敗後、初代王者オールブラックスから日本ラグビー界への衝撃的なダメ押しだった。南アの司法首都ブルームフォンテーンでの惨敗は「悲劇」「悪夢」というより「国辱」でもあった。

 ◇  ◇  ◇

キックオフから90秒でトライを奪われた。日本は敵陣に入ろうとキックをしてはカウンター攻撃を受け、トライを重ねられた。前半15分で0-35。タックルは空を切る。オールブラックスは容赦しない。前半終了で3-84。後半10分に10-103となると、スタンドでは「100点ウエーブ」が始まる。梶原の2トライは焼け石に水。スタンドから中身が残っている缶ビール、紙コップが飛ぶ。「これがW杯? 金返せ」の意味だ。「国辱」と映った。観客が去り始め、「もう時間の無駄」とばかりにロスタイムはない。翌日から日本人は「145(失点)」などと、イジられた。

ニュージーランドに大敗を喫したことを報じる、1995年6月5日付日刊スポーツ東京版

選手も関係者も「勝てないまでも、これほど大差がつくとは…」。相手は既に1次リーグ突破を決め、エースWTBロムーら主軸不在。だが、「2軍」だったからこそ、手を抜かなかったのだ。次の出場機会を求めてアピールし続けた。日本でもプレー、その後に指導もしたシューラーは「次にオールブラックスのジャージーを着られるのはいつなのか、分からなかったから」と振り返っている。

日本側の問題は? 小薮ジャパンの一員は「結局、勝つ気がなかった」とシンプルに総括した。戦術、体力、分析、準備、心構え、意思疎通…「すべてで足りなかった」と。同年3月に神戸製鋼7連覇のヒーロー平尾が代表復帰したことで、首脳陣らチーム内外に安堵(あんど)感が広がった。それが緩みに転じたという見方は否めない。

最も印象的だったのはW杯でのスタッフを含むチーム内の温度差だった。厳しく管理される近年と違い、グラウンドを離れれば「自己管理」の時代。南アでは練習が終われば、事実上の自由時間だ。買い物も、部屋飲みも、ゴルフもあり。気晴らしにカジノに出向く者もいた。もちろん黙々とストイックに戦いに備える者もいた。違和感の中、チーム内の摩擦を避けるため、目をつぶる者もいた。

南アで始まったことではなかった。国内合宿でも「自己管理」だった。当時のラグビー界はアマチュアだ。都内合宿の練習場に筋トレ設備はなく、所属チームの施設に頼るしかない。昼食は用意されず、選手は各自でサラリーマンに交じって牛丼、ラーメン、定食などで腹を満たす。栄養学とは無縁だった。

いわゆる「おおらかな」時代だった。

一方でニュージーランドなど強豪国は、その後のオープン化(プロ容認)を見込んで“セミプロ化”しており、伝統の上にすべてで緻密な準備をしていた。17-145。敗因は1つではないが、この歴史的大敗を機に日本のラグビー人気は下降線をたどる。国民的注目を取り戻すのに20年を要することになった。【岡田美奈】

<日本の過去のW杯>

◆第3回(95年、南アフリカ)アパルトヘイト(人種隔離)政策の影響により除名されていた南アフリカが初出場。自国開催で優勝を果たした。日本はウェールズ、アイルランド、ニュージーランドと3連敗。小薮修監督、薫田真広主将。大会2カ月前にSO平尾誠二が代表に復帰した。

【戦績】日本10-57ウェールズ、日本28-50アイルランド、日本17-145NZ

◆第4回(99年、ウェールズなど)参加チームが16から20に拡大。日本は平尾誠二監督のもと、マコーミックが初の外国出身主将を務めた。元ニュージーランド代表のNO8ジョセフ、SHバショップも代表入りさせたが、サモア、ウェールズ、アルゼンチンに3連敗。オーストラリアが2度目の優勝を果たした。

【戦績】日本9-43サモア、日本15-64ウェールズ、日本12-33アルゼンチン

1999年10月4日付日刊スポーツ東京版

◆第5回(03年、オーストラリア)日本は向井昭吾監督、箕内拓郎主将の体制で臨む。初戦のスコットランド戦、続くフィジー戦の健闘に「ブレイブ・ブロッサムズ」と評価を受けるも、フランス、米国と結果的には4連敗。WTB大畑、FB松田ら。イングランドが北半球で初の優勝。

【戦績】日本11-32スコットランド、日本29-51フランス、日本13-41フィジー、日本26-39アメリカ

2003年10月13日付日刊スポーツ東京版

ラグビーW杯がやってくる

「早明戦があるから」大学こそが頂点だった昭和時代

<記者が振り返る W杯の歴史(1)>

いよいよ日本列島がラグビーに沸く開幕まで半年を切った。4月からは好評連載「W杯がやってくる」もグレードアップ。火曜日から土曜日の紙面で、連日掲載します。リニューアル第1弾は「記者が振り返るワールドカップ(W杯)の歴史」。歴代の担当記者が当時の日本ラグビー界の状況を背景に、日本代表の世界への挑戦をお届けします。

 ◇  ◇  ◇

1987年、第1回のW杯が行われたのは「昭和時代」だった。5月24日、日本は初戦で米国に敗れた。トライ数3は同じだが、プレースキック10本のうち8本を外して18-21。「惜しかった」と当時の紙面にはあるが、世界との差を思い知らされた試合だった。

1987年5月25日付東京本紙

無理もなかった。できたばかりのW杯は、選手にとってもラグビー界にとっても未知のもの。ロックの林氏は「誰も知らない。見たことない。そういうのができたんや~、と思っただけ」と振り返る。伝えるメディアも同じ。我々もW杯を、世界を、知らなすぎた。

当時、ラグビーは大ブームだった。早明戦や日本選手権などは国立競技場が超満員。Jリーグ発足前のサッカーなど相手にならなかった。もっとも、注目されるのは早大、明大、慶大など伝統校。社会人は仕事優先で練習もできず、この年の日本選手権も東芝府中が早大に敗れた。大学こそが頂点で、日本代表が注目されることも少なかった。

W杯そのものに、反対する声もあった。相手を認めた上で対戦するのがラグビー。予選のない第1回大会は招待だったが、日本協会の中には「不特定の相手と対戦するのはラグビーではない。辞退すべき」という意見もあった。かたくなに守るアマチュアリズムが崩壊するのを恐れる声もあった。

それでも日本は参加し、惨敗した。イングランドに7-60で大敗した後、宮地克実監督は「こてんぱんにやられた…」、金野滋団長も「日本に世界のトップを相手にする力はない」と現実の前に放心状態だった。無理もない。当時あったのはテストマッチという「親善試合」。来日する伝統国は若手主体か観光気分。初の真剣勝負で知ったのは、伝統国の「本気」だった。

それでも、ラグビー界全体としては危機感がなかった。「世界に負けても日本には早明戦があるからいいじゃないか」と皮肉まじりで原稿を書くと「よく書いてくれた」と協会幹部から言われた。惨敗しても、日本のラグビー界に本気で世界と戦う意識はなかった。

4年後、宿沢広朗監督と平尾誠二主将のチームは2度目のW杯に臨んだ。今度はアジア予選を勝ち抜いて出場し、相手の分析など周到な準備もした。スコットランド、アイルランドに敗れたが、最終戦でジンバブエに52-8とW杯初白星。宿沢監督は「まだ課題だらけ」と話したが「歴史的な1勝」と喜ぶ関係者も少なくなかった。わずか2回の「世界体験」だけで、日本のラグビー界が変わることはなかった。【荻島弘一】

1991年9月16日付東京本紙

<過去のW杯>

◆第1回(87年、ニュージーランド・オーストラリア)予選なしで16カ国が参加。日本は初戦で米国に敗れ、イングランド、オーストラリアと3連敗した。大会直前に宮地克実監督が就任。ロック林敏之主将、SO平尾誠二ら。ニュージーランドが初代王者に。

◆第2回(91年・イングランド他)当時の5カ国対抗参加国で共催。日本はスコットランド、アイルランドに連敗し1次リーグ敗退決定後、ジンバブエに勝利。宿沢広朗監督、CTB平尾誠二主将、SH堀越正巳、WTB吉田義人ら。優勝はオーストラリア。

ラグビーW杯がやってくる

茂野海人SHらしからぬ積極的ランで代表入りへ走る

<俺のこだわり:茂野海人「ラン」>

ワールドカップ(W杯)出場を目指す若手選手の「こだわり」に迫るシリーズ最終回は、SH茂野海人(28=トヨタ自動車)。密集からのパス出しが基本プレーのSHらしからぬ、攻めのランで代表入りを狙う。テンポの速いパスだけではなく、自ら走ってゲームのリズムを作る。

 ◇  ◇  ◇

15年春。茂野は失意の中でニュージーランド(NZ)に旅立った。「もしもラグビーを楽しめなかったらこの後どうしようかな」。ラグビー人生の終止符が頭をよぎった。ただ、そんな悩みは杞憂(きゆう)に終わった。それどころか大きな収穫、自信を手にして帰国した。

島根・江の川高で花園に出場し、大東大で主将を務め、卒業後はNEC入り。ラグビー人生は順風満帆にも思えるが、試合出場機会に恵まれず、思うようなプレーができなかった。「社会人になってからラグビーを楽しめない時期があった」と悩んでいた時に、NECの海外派遣制度の一員に指名された。NZの名門ポンソンビークラブに留学が決まり、チームの辻高志コーチから「楽しんでやってこい」と背中を押された。

15年12月、ラグビートップリーグでトライを決めたNECのSH茂野海人(左)はSO田村優に祝福される

NECではSO田村優の大きな存在に頼りっぱなしで、パス出しに専念していた。だが本来は「ボールを持って走るのが好き」。いつしか封印していたプレーをNZで解禁。ボールを持ち出してからのパスや、密集で空いたスペースを自らのランで突いた。SHらしからぬ積極的なランは、オークランド州代表に選出されるまでに評価された。伝統ある国内州代表選手権ITMカップに出場し、準優勝に貢献。「これは自分の強みになるし、自信にもなる。こういうラグビー、楽しいな」。つかんだ手応えでラグビー人生が変わった。

密集の中から、やみくもにボールを持ち出すわけではない。全てはボールに触れる前に決めている。「ディフェンスの1枚目、2枚目の選手の目です。どこを見ているのか。外を見ていたら僕のことは気にしていないな、とか」。常に密集からパスを出すのがSHの役目。密集に向かい、SOやFWからのパスを要求する声を聴きながら、密集サイドの状況を見極める。耳は味方に傾けて、目でスペースを突く。それが積極的なランへとつながる。

 

ランの基礎はNEC時代に築いていた。現役時代にSHだった指導者と初めて出会ったのが辻コーチ。「なかなかしごかれました」と徹底して教えられたことは「投げた後の3歩」だ。パスをした後のサポートが目的。だがその3歩の意識が、ランへの踏み出しの1歩にもつながった。

高校、大学で1度も縁がなかった桜のジャージーに、社会人4年目にしてようやく袖を通した。だがW杯に向けては田中史朗や流大らとの激しい代表争いが待っている。「ボールを持ち出して積極的な動きができれば、ふみさん(田中)や、ゆたか(流)とは違った色が出せる」。代表入りへ走り続ける【佐々木隆史】

ピッチマーク

五輪への道できた!ステップアップツアーポイント増

河本結(2018年8月31日撮影)

国内女子ゴルフ下部ツアーとなる19年ステップアップツアーが26日から開幕した。

今週の開幕戦、ラシンク×リシュリュRKBレディース(福岡県ザ・クイーンズヒル)を皮切りに20大会が開催されるが、うち3日間大会(一部を除く)の18大会は、新たに従来の世界ランキングポイントに6ポイントが加算される。日本女子プロゴルフ協会(LPGA)によれば、今回のポイント付与で、選手に2つのメリットがあるそうだ。

まず昨年までと比較し、選手への配分ポイントは1・5ポイントがプラスされる。またポイントが配分される選手は14人から20人に増加。選手個々の世界ランキングが上がることで、さらなる大会ポイントの増加も期待できる。LPGAのシミュレーションでは、18年ステップアップツアーで年間4勝を挙げた同ツアー賞金女王の河本結(20=エリエール)が19年で施行されるポイント増を得た場合、18年ツアー終了時(18年11月時点)の世界ランキングが239位から180位程度にまで上昇するという試算が出たという。計算通りなら実に50位近くもジャンプアップすることになる。

これまで米下部ツアー、中国女子ツアー、台湾女子ツアー、欧州下部ツアーの4ツアーのみ付与されていたボーナスポイント。17年に世界ランキングのポイント加算の対象になってから2年後の導入はステップアップツアーの実績が評価されてのものだという。このボーナスポイント付与で、ツアーの価値、競技力の向上も期待できるだろう。

さらに、何よりオリンピック(五輪)の出場選手の選考は世界ランキングが反映されるだけに、大きな意味がある。決して可能性が高いわけではないが、日本の下部ツアーからでもオリンピックを目指せる「道」ができたことになる。

少しでも世界ランキングをアップできるチャンスが広がったことで、ステップアップツアーの戦いも一層、激しさを増しそうだ。【藤中栄二】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

河本結(2019年3月7日撮影)

伊藤華英のハナことば

「ラグビーの街」釜石が輝きを取り戻す年/伊藤華英

「原っぱがあると人が集まる」

岩手県釜石市にある宝来館という老舗旅館の女将、岩崎昭子さんがそう話された。東日本大震災後の町おこしの中心人物だ。現在も旅館を切り盛りしながら、訪れた観光客に震災の話をしている。

宝来館の岩崎昭子さん(右)と筆者

先日、震災から8年を迎えた。この旅館への旅行者も減ってきているという。私は釜石という場所の素晴らしさをもっと伝えたいと思う。そして今、インフラではない復興が必要な状態になっているからこそ、伝えたいと思い執筆している。

時間は本当にあっという間に過ぎる。しかし地元の方たちにとっては、ひとつも色あせることのない、2011年3月11日だ。

大きな被害を受けた釜石市で、亡くなった方は993人、行方不明者は152人。家屋倒壊は3656に及んだ。当時の釜石市の人口は3万9574人。被害の割合で考えると、すさまじい数だ。

宝来館の前に立つ岩崎さん

宝来館も被害を受けた。

今は、目の前にきれいな海が広がる。静寂ともいえるこの景色。静かに風が吹き、波の音が聞こえ、「日本の景色」を感じられる場所だ。

「海には罪はない」

女将さんは、海を見ながら話すのだ。

震災直後は、考える気力もない状態だった。そこにいち早く駆けつけてくれた人たちがいた。

釜石シーウェイブスのラグビー選手たちだ。

彼らは、がれきを運び、被災した人に声をかけて回った。大きな松の木を担いでいる姿を見て、住民たちは感激した。彼らの頼もしさに勇気を持てた。そんな選手たちのおかげで、心に温かさが戻ってきた。

「釜石はラグビーの町なんです」

今年、日本で開催されるラグビーワールドカップ2019。会場の1つに選ばれたのが、ここ釜石だ。

震災後、「ラグビーワールドカップを釜石に」という声があがり始めた。誘致の機運は徐々に高まり、2014年には開催都市に正式立候補。2015年3月、国内12開催都市の1つに正式決定した。

ワールドカップが釜石に来ることに対して、反対する人もいたという。しかしネガティブな意見を言う地域住民は多くなかった、と岩崎さんは言う。「来てくれる人がいれば、街が変われる」「前を見ていくことが生きていくこと」。ワールドカップ開催決定は、街の人たちのエネルギーになったに違いない。

昨年8月19日、ワールドカップが行われる釜石鵜住居復興スタジアムのこけら落としが行われた。まさに、釜石の人たちの夢の場所。待ちに待った日だった。

昨年8月、釜石鵜住居復興スタジアムのこけら落としが行われた

新スタジアムは釜石東中学校と鵜住居小学校の跡地に作られた。被災直後は、小学校の3階に軽自動車が突き刺さった状態だったという。

生徒たちは仮設の学校へ通った。大人たちは「母校というのは、また帰ってくる場所でもあるのに仮設校舎はふびんだ」と思ったそうだ。

ただ、子どもたちにとっては、仮設校舎であっても母校であることに変わりはなかった。徐々にそう思えるようになったという。

2つの学校は新しく建て直され、2017年に完成。現在の生徒たちはそこへ通っている。

「前の仮設に慣れて、新しい校舎に慣れない」。釜石東中3年生の佐々木真奈さんは話す。

「先生たちも、新しい校舎になり緊張感がある」。同学年の高清水享妥(きょうた)さんもにこやかに話してくれた。

「釜石のいいところは海がきれいなところ。魚がおいしい」

「おじいちゃん、おばあちゃんが元気なところ」

佐々木さん、高清水さんは声をそろえる。

彼らの話を聞いていると、大人の私たちが気付かされることがあるなと感じた。

誰もが知る、ラグビーと鉄の街。

ラグビーワールドカップ2019組織委員会岩手・釜石地域支部の浦城太郎主任は、新スタジアムのために自らの時間のほとんどを費やしてきた。被災からここまで、大変なことも多かった。だからフィールドにポールが建った時は、本当に感激したという。

「今回のこけら落としはとてもうれしいし、感慨深い。これから、ラグビーワールドカップ2019がくることが街の方にも活力になる」。

元ラガーマンでもある浦城さん。記念試合に出場した五郎丸選手(ヤマハ)にも特別な思いがあった。前回のワールドカップで活躍したスター選手を、初めて見たのは高校生の時だった。

地元の盛岡工と、五郎丸選手が所属する佐賀工が対戦した試合。釜石南高に通っていたラガーマンは感激したという。「ラグビーをやっていなかったとしても、素晴らしい仕事に関われていると思う」と話した。

釜石ではたくさんの方に話をうかがった。それぞれの想いがあると感じた。

ラグビーの街でもあり、毎年トライアスロン大会を開催し、60年も盆野球という文化が根づく釜石。スポーツの街だ。

被災直後、屈強なアスリートの行動に、住民は元気をもらった。そして世界から人が集まってくるスタジアムの完成を心待ちにした。

スポーツだから、つながれる。勇気が持てる。

一生懸命な想いを持っているこの地域を、これからも応援したい。

「たくさんの人が来てほしい」

この想いを少しでも届けられればと、心から願う。

(伊藤華英=北京、ロンドン五輪競泳代表)

<ラグビーワールドカップ2019釜石開催日程>

(釜石鵜住居復興スタジアム)

2019年9月25日(水)午後2時15分 フィジー対ウルグアイ

2019年10月13日(日)午後0時15分 ナミビア対カナダ

We Love Sports

紀平ら指導の浜田コーチ、笑顔見るため世界飛び回る

浜田美栄コーチ

3月23日、世界フィギュアスケート選手権を締めくくった男子フリーで、新たな歴史が刻まれた。さいたまスーパーアリーナ内に設けられた記者会見場の壇上には、中央に圧倒的な演技で優勝したネーサン・チェン(19=米国)。その右隣には五輪2連覇の2位羽生結弦(24=ANA)。そして左にビンセント・ゾウ(18=米国)が座っていた。

会見は1位から順に、大会を振り返るコメントから始まる。その最後にマイクを握ったゾウは、所々に初々しさを見せながら「私は実感が湧いていない。最高の結果になりました。しかも、あのネーサン・チェン選手、羽生結弦選手と、メダリストになれたことがうれしい。そして米国男子として96年以降で初めて、2人がメダリストになれた」と同年金メダルのエルドリッジ、銅メダルのガリンド以来となる快挙を喜んだ。

ゾウは現在の連続ジャンプで最も基礎点の高い4回転ルッツ-3回転トーループを冒頭で成功。出来栄え点は3・94点で、1つの要素だけで19・64点を稼いだ。回転不足が2つあったものの、3種類の4回転ジャンプを操り、会場は総立ち。その姿をリンクサイドから5歩ほど下がった位置で喜んだのが、日本の浜田美栄コーチ(59)だった。

浜田コーチは今大会の女子4位紀平梨花(16=関大KFSC)、6位宮原知子(20=関大)の指導者として広く知られている。もちろん、今回も2人をアリーナ内外で支えた上で、ゾウについても公式練習の時点から助言を送っていた。2月の4大陸選手権でゾウの口から「ハマダ」の名前が出ており、その経緯が個人的に気になっていた。

そもそもの出会いは5年ほど前だったという。浜田コーチが教え子を連れ、振り付けや、合宿などで度々訪れる米コロラドにゾウはいた。他の選手でもよくあるように、同じリンクで時間を過ごすうちに助言を求められ、その関係がより近くなっていった。

18年夏や、今大会前にはゾウが関大のリンクで練習。浜田コーチは「回転不足を取られてしまうところはあるけれど、能力はすごく高い」と評し、ジャンプだけでなく、気付いた点をアドバイスする。一方で「やっぱり私は自国のコーチが見るのがベストだと思っています。だから、あくまでもメインのコーチ(が第一)です」という持論があり、適度な距離感を保つ。

紀平や宮原も欧州や北米で合宿を行った際には、羽生のジャンプも担当するブリアン・ジスラン・コーチや、ステファン・ランビエル・コーチからの助言にヒントを得てきた。カナダ・トロントに拠点を置き、多くの国の代表選手を指導するブライアン・オーサー・コーチのような例も含め、一国に縛られるのではなく、各指導者がスケート界全体のレベルアップに貢献する構図は、この競技の財産だと思う。

最近、話の流れで浜田コーチの指導に対する姿勢を再確認する機会があった。強化選手ではない、一選手がしみじみと言っていた。

「浜田先生、4大陸選手権で米国にいたのに、フリーが終わったら飛行機に飛び乗って、24時間後には大阪の小さな大会で滑る、1回転しか跳べない子たちをリンクサイドで指導していたんです。これって、本当にすごいなと思いました」

今大会ではホームセンターで片っ端から購入した、5000円分のテープを持参。スケート靴の繊細な感覚の調整に苦労する紀平とは、リンク外でも一緒に最善の方法を探った。ショートプログラム(SP)を終えた宮原には「気持ちの問題。調子よく来たのに、守ることはない。思いっきりやりなさい」と厳しく声をかけ、フリーの好演技へつなげた。

思い返せば平昌五輪前の18年1月、コーチとしての楽しさをこう語っていた。

「私のところで6歳の女の子がシングルアクセル(1回転半)を跳べるようになって、うれしそうに何回も練習している。そういう子たちが生きがいを持てるようにやってきましたし、それが好きなので、私は変わりません。1回転半を跳んだら、喜ぶことを貫きたい」

全ては目の前の教え子、その笑顔のため。指導の横幅が世界へと広がっても、その姿勢だけは変わっていない。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大とラグビー部に所属。13年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当し、平昌五輪ではフィギュアスケートとショートトラックを中心に取材。

18年12月8日、グランプリファイナルで優勝が決まり、両手を上げる紀平。右は浜田美栄コーチ