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宇野昌磨「心を許した人」に突き動かされた優勝宣言

4大陸選手権を終えて帰国した宇野は、金メダルを手に微笑む(撮影・浅見桂子)

これまでの記者人生で、最も意外な「優勝宣言」だった。日本勢の男女優勝で幕を下ろしたフィギュアスケートの4大陸選手権(米カリフォルニア州・アナハイム)。2月9日(日本時間10日)、時間は現地の午後11時を過ぎていた。

男子フリーで世界最高得点を記録し、ショートプログラム(SP)4位から逆転優勝した宇野昌磨(21=トヨタ自動車)は上位3人の記者会見に臨んでいた。

3選手による演技の総括から会見は進んでいく。シニアの主要国際大会を初めて制した宇野は、トップバッターとして口を開いた。その一言目を、取材する身として驚きながら聞いた。

「今日の感想は…終わった直後は『うれしい』という気持ちよりも『終わった』『やりきった』という気持ちだけが残り、1位という順位になれたことは、すごく素直にうれしいですけれども、世界選手権(3月、さいたま市)ではもっともっと練習した上での『優勝』を、目指したいなと思っています」

海外メディアも多く出席した公式の場で、誰に問われることもなく「優勝」という言葉を力強く発した。

平昌五輪シーズンだった昨季、すでに世界トップスケーターの1人でありながら、「五輪金メダル」を意識した発言はゼロだった。

1年前の2月7日、韓国・江陵の五輪会場で初練習した際には「どの試合でも練習してきたことを、悔いを残さずに出して、最後まで笑顔で終われたらなと思います」。銀メダル獲得から一夜明けた同18日の記者会見でも「多分家族のみんなは五輪で銀メダルを取ったことより、練習してきたことが出せたことに、すごく喜んでいると思いますけれど、まだ連絡はありません。連絡を返さないので、連絡が来ないんだと思います」と宇野にとっては本心をコメントし、笑わせた。

「天然」といった言葉が多く用いられたが、個人的には少し違和感があった。あくまで宇野にとって五輪は最後まで「自分のベストを出したい1つの大会」であり、それを貫いていた。

ところが1年後、世界選手権での優勝宣言が飛び出した。会見後、カメラのない取材エリアに立ち、その真意を明かした。コメントを切らずにそのまま記す。

「なんとなくです。特にこういった理由はないんですけれど、ま、その多分、僕が思ったのは、(4位だった)ショート(プログラム)が終わった後に出水先生(トレーナー)といろいろ話をしていて。いつもいろいろ話すんですけれど『4大陸が終わって、世界選手権で1位をとってほしいから、そのために今後どうしていくか』とか。ショートでの悔しい(感情)以前の話をいろいろとしていたので。出水先生にも『昌磨には世界選手権で1位をとってもらいたい。その方針で今年1年やりたいと思っていた』っていう言葉を聞いた時に、なんか『1位を取るっていうのが、そこで、自分のためではなく、みんなのため、他人のためになるんだな』っていう思い(になった)。で、『1位にこだわりたいな』って思ったのが、一番ですかね」

取材の数分後に偶然通りかかった出水慎一トレーナー(40)は、宇野の発言を伝え聞くと「本当ですか!? うれしいですね」とこれ以上ない笑顔を見せた。

「前向きな話はいつもしていましたけれど、この機会がタイミングいいかなと思って話はしました。『後悔したくないな』って思ったんです。自分でも過去に言わなかったから後悔したことがあったので、そこは言おうと思って。彼が(競技者を)終わった時に『良かった』って言ってもらいたいっていうのがすごくあって。(振り返った時に大舞台での)1位がないっていうのは、寂しいので」

宇野は17年5月から、出水氏と行動を共にする。平昌五輪切符をつかんだ全日本選手権(同年12月)後にはその関係性を「すごく助かっています」と口にしながら、体の変化については「ないです」と笑わせていた。後日、同氏にそのことを問うと「それでいいんですよ。こっちが言っているのは単なるヒントだから、気にする必要はないんです。トレーナーとしてもフィギュアは未知が多い世界。昌磨は特に氷と陸で別人になる。あくまで昌磨本人が、(演技を満足に)やり切れないといけないので」と語っていたのが印象深い。

張り詰めた空気の本番会場でも、6分間練習前はバスケットボールや、テニスボールでのキャッチボール…。これまで宇野のウオーミングアップは、楽しく体を動かすことが主だった。周囲の選手が「昌磨のアップ、楽しそう」と話しかけてくるほどだった。一方、出水氏は宇野と初めて出会った時から「21歳になった頃にはケガするな」とプロの目で予感していた。すでに21歳になっている宇野と、今季終了後に調整法を再考する予定だった。

結果的には、宇野自らが先にその必要性に気付いた。21歳の誕生日直後に行われた全日本選手権(18年12月)で右足首を捻挫。さらには、4大陸選手権までに同じ箇所を2度もひねった。宇野はこう明かした。

「3回同じ場所をケガした。これまでアップは『体が動けばいい』と思っていたので、いろいろなアップをしていたんですけれど、3回目にケガした時に僕も『ちゃんとアップをして、ちゃんとケアをしなければ治らないんだ』と思った。(今は)『アップっぽい』というか、『様になっている』というか…(笑い)」

氷へ上がる直前の最終調整に「遊び」は消えた。信頼する出水氏の指導の下で現在は約30分間、体を温めている。自分の考えに頑固なイメージが強い宇野だが、少しだけ例外がある。

「人のことは全然聞かないですけれど、自分が心を許した人とかは(言うことを)よく聞きますよ」

世界選手権の優勝宣言は、宇野と出水氏のベクトルがかみあった瞬間に生まれた。宇野は「心を許した人」の言葉に突き動かされた。宇野の性格を理解する出水氏はコツコツと信頼関係を築いた上で、結果にこだわる重要性を「彼が(競技者を)終わったときに『良かった』って言ってもらいたい」という心で発した。

2019年に入ってから、宇野のパズルにはウオーミングアップ改革、4大陸選手権優勝、世界選手権優勝宣言と新しいピースが次々に加わった。それが完成した時に一体、何を言うのか。そのコメントが、今から待ち遠しい。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大とラグビー部に所属。13年10月に大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月から西日本の五輪競技を担当し、平昌五輪ではフィギュアスケートとショートトラックを中心に取材。

伊藤華英のハナことば

「G1」で素晴らしい人に学ぶ喜び味わう/伊藤華英

先日、11回目になる「G1サミット」に初めて参加してきた。党派や領域を超えて、知恵を共有し、行動から突破につなげていくプラットホーム。何度もお誘いいただき、やっと参加できたというのが現状だ。なんといっても、参加者が300人を超えるビッグイベントだ。

G1サミットに参加した伊藤華英氏(右から2人目)ら

今年は2月9日から11日まで、青森で行われた。内容は、分科会と呼ばれるディスカッションがいくつもあり、なんとも刺激的だ。そのほかにアクティビティーもあり、参加者同士がお互いをよく知ることができるのだ。

分科会は、司会役のモデレーター1人と、パネリスト2~5人が1組となって行われる。私が属した分科会「TOKYO2020開催目前」には、元バレーボール日本代表で参院議員の朝日健太郎さん、元卓球日本代表でTリーグチェアマンの松下浩二さんらがいた。

参加してみての感想は「頭がパンパン」。

政治、経済、ビジネス、科学技術、文化、社会、社会保障、スポーツ、医療などの分野のトップがこれだけ集まるのだから、インプットの量が普通ではない。この機会にたくさんアウトプットしたいのだが、ここでは紹介しきれない。

このG1の行動指針は「批判よりも提案を」「思想から行動へ」「リーダーとしての自覚を醸成する」だ。この指針に沿って議論をしていく。コンセプトの中に「一方向のインプットだけではなく、参加者相互の学びを重視します」というものがあり、まさに!と思った瞬間があった。

メディアデザイナーの落合陽一さんが「世の中にエキサイティングなものをどう出していくか」これが目的だと。どんな場所でもいい、社会へのアウトプットだと。面白くする。こんなワードが多く聞けた。

「日本だけが修士博士を取る人口が減っている」。ノーベル生理学・医学賞をジョン・ガードン氏と共同受賞した京大の山中伸弥教授が話していた。その言葉で私自身のことを思い出した。

私は現役引退後、大学院に進み、修士、博士を取得した。その間には「なんで勉強するの?」とよく聞かれた。「勉強好きだね」とも言われた。実際、なぜ勉強しているのか分からなくなるくらい、大変な時期もあった。

しかし今思い返すと、学位取得の過程を経験できてよかったと思う。アカデミックな視点を学べたということもあるが、「謙虚さ」を学んだということが一番だ。知らないことを知ったとき、自分の無知さを知るという言葉があるが、まさにその通り。知らなかった自分に出会えるのだ。

このG1は、学位だけではない、学びを共有し、社会に役立てるそんな場所だ。

安易な表現だが、本当にすごい人なのに、柔軟でいろんなことに興味があり、こんな私にも丁寧な対応をしてくれる。こんな若輩者が、道に迷いそうなときにやさしく手を貸してくれる素晴らしい方に出会うと、もっと成長したい!そう思えるのだ。私は大学で講師をしているが、生徒たちにも未来は明るいということを示したい。これから生まれてくる子供たち、まだ義務教育を受けている世代、未来を不安に思う若者へ示したいと思えた。

G1サミットにはアクティビティーも。後列右端が伊藤氏

あっという間に2月も中盤。2019年はラグビーワールドカップ、女子サッカーワールドカップもある。いよいよという気持ちだ。

時間を大切に過ごしていきたい。そう思えた、3連休だった。

本当にG1の皆様ありがとうございました。

(伊藤華英=北京、ロンドン五輪競泳代表)

ラグビーW杯がやってくる

レメキの目標はW杯だけでなく「東京五輪でメダル」

<外国出身選手の物語>

日本代表の「外国出身選手の物語」最終回は、16年リオデジャネイロ・オリンピック(五輪)の7人制日本代表で4位入賞に貢献したWTBレメキ・ロマノラバ(30=ホンダ)。力強い突破が魅力のトライゲッターはニュージーランドで生まれ、「サムライの国」の国籍を取得した。胸中にはワールドカップ(W杯)日本大会での活躍、20年東京五輪の7人制でメダル獲得の夢がある。

18年6月、日本対イタリア 後半、突進するレメキ・ロマノラバ

携帯電話を持つレメキの手はぎこちなかった。来日1年目のシーズンが終盤となった2010年。現在の妻、恵梨佳さん(32)とのメールは「微妙な感じ」だった。「会話はGoogle(笑い)。日本語はそんなにしゃべれないし、奥さんもあの時は英語が全然。お互い頑張った」。11年のマツダ加入で東京から広島への転居が決まると「一緒に行こう」と切り出した。

「いいよ、大丈夫。俺の人生だから(両親が)ダメでも結婚するから大丈夫」

急展開による不安で涙を流す恵梨佳さんを説き伏せ、初めて相手の両親に対面。移住先のオーストラリアに残した自身の家族にも「大丈夫」と伝えた。「俺の性格は『これがやりたい』となったら、絶対にやる」。12年11月に結婚。息子3人の子宝に恵まれている。

恵梨佳夫人、3人の子供たちと写真に納まるレメキ

初来日から、まもなく10年。ニュージーランドのオークランドで生まれたレメキは、4歳でラグビーを始めた。13歳まではFWで「NO8で毎回、トライを取っていた。あの時はガリガリだったから」と当時から突破力が武器。高3となり家族全員でオーストラリアへ移住すると、ランコーン高のCTBとして「楽しかった」とボールを追った。

転機は20歳だった08年11月。代理人に「キヤノンからオファーが来た。日本は住みやすいよ」と伝えられ「じゃあ、行きま~す」。ニュージーランドとオーストラリアしか知らない青年は、日本行きを即決した。

「日本のイメージはスモウとサムライ。『みんなデカい』と思って日本に行ったら、ちっちゃかった」

未知の国になじむのも早かった。キヤノンでは仲間から焼き肉やすしへ誘われ「人がむちゃくちゃ大好きになった」と目を輝かせる。文化の違いも「市役所に行って、紙1枚忘れたら『今日は手続きができない』ってなるでしょう? その時は『どっからどう見ても俺だから、いいだろ!』ってたまになるけれど、それぐらい。やっぱり日本は最高だよ」と笑う。来日1年目で日本で暮らす決意を固め、恵梨佳さんとのやりとりで語学も急成長。14年には日本国籍を取得した。

ジャパンへの思いが芽生えたのは13年3月、テレビで見た7人制の国際大会「東京セブンズ」だった。スペースが広く、1対1の要素が強い7人制に「俺、これなら日本代表になれる」。16年リオ五輪4位の原動力となり、3カ月後の11月に15人制初キャップをつかむと、新しい夢ができた。

「リオに向けての合宿で、チームというより、家族になった。チームメートのため、日本のみんなのために頑張ったのが五輪。今度はW杯でやりたい。それでまだチャンスがあるなら、セブンズをやりたい。東京五輪でメダルを取りたい」

遠い母国から見つめたサムライの国に、尽くす覚悟はできている。【松本航】

◆レメキ・ロマノラバ 1989年1月20日、ニュージーランド・オークランド生まれ。トンガのプロボクサーだった父を持ち、4歳でラグビーを始めた。高3で移住したオーストラリアのランコーン高を卒業。09年に来日してキヤノン、マツダ、ホンダでプレー。7人制日本代表を経て、16年秋のアルゼンチン戦で15人制の初キャップ。愛称は「マノ」。家族は妻と息子3人。172センチ、92キロ。

◆代表でのプレー資格 現在の条件は(1)当該国・地域で出生している(2)両親、祖父母の1人が当該国・地域で生まれている(3)36カ月継続か通算10年にわたり当該国・地域に居住している。継続居住期間については20年12月31日以降、36カ月から60カ月に延長される。

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ベテラン諸見里しのぶ、不屈の闘志で復活の階段上る

諸見里しのぶ

クラブハウスの階段で目が合うと、彼女は深いため息をついた。無理な作り笑いをしながら、つぶやく。

「ダメでした。(スコアを)伸ばせなかったです」

どんな声をかけたらいいか、すぐには分からなかった。悲観的に捉えられがちなその言葉を何度か、頭に巡らせてみる。ごくごく当然のことかも知れないが、彼女はまだ戦っていた。もっとうまくなりたい、再び強くなりたい-。

そんなギラギラとした闘志が、今も彼女の胸の中にくすぶっているように思った。少し考えてからその事実を悟り、私は言葉を絞り出した。

「大丈夫。きっとまた、僕は強くなれると信じています」

諸見里しのぶ(32=ダイキン工業)とそんなやりとりをしたのは、昨年11月30日に兵庫・東急グランドオークGCであったファイナルQT最終日のことだった。前日の第3日で78とたたいた彼女は、18年のレギュラーツアー前半戦の出場権を得るためには、最終日に是が非でもスコアを伸ばさなければいけなかった。

無情にも結果は72で、出場権が遠のくQT68位。19年は下部ツアーか、最大8試合ある推薦でのレギュラーツアーに限られることとなった。

呼吸も苦しむほどの肋(ろく)軟骨炎と、アレルギー治療のため15年末に休養を宣言。16年は限定で7試合だけ出場したものの、全て予選落ちし、年間獲得賞金はプロ転向後初の0円だった。09年に6勝を挙げ、賞金ランク2位となる約1億6525万円を稼いだかつての面影を失った。

それでも不屈の闘志で復帰し、17年には約151万円、18年は約673万円を獲得。ゆっくりとした歩みではあるが、復活への階段を上りつつあるのは確かだろう。

今年もまた、国内女子ツアーは諸見里の故郷沖縄で開幕する。ホステスプロとして臨むダイキンオーキッドレディース(3月7日開幕、琉球GC)に向け「いかに上位に食い込めるかが、大きなポイントになると思うので、昨年以上の成績を目指して頑張っていきたいです」と語り、調整は最終段階に入っているようだ。昨年の同大会は、優勝争いを繰り広げ3位。沖縄のファンは、09年以来10年ぶりとなる復活優勝を心待ちにしていることだろう。

最近は、黄金世代を中心にした若手の成長が著しい。だが、苦労を味わったベテランが輝くのも、見てみたい。【益子浩一】

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野獣の相棒変わらず 松本薫と池田彩華の濃密な関係

引退会見後、練習パートナーだった池田彩華さん(左)に、お礼の花束を渡し、涙する横で思いを語る松本(撮影・浅見桂子)

柔道界では練習パートナーのことを「受け」と言う。技を受ける役割のことで、日々の練習から試合の直前まで。勝利のイメージを反復する攻め手に沿いながら、受け手としての技術を探し続ける。どうすれば勝ってもらえるのか。仮想敵を模倣し、細かい技術の修練のきっかけを作るにはどうすればいいのか苦心し、時には私生活の悩みにも付き合う。この日、「野獣の相棒」はまさか自分が「受け」に回るとは思っていなかった。だから、二人三脚で歩んできた9年間が涙腺を緩ませた。号泣する姿を見て、「薫先輩」はしてやったりの顔で喜んでいた。ロンドン五輪で柔道界唯一の金メダリストとなった女子57キロ級の松本薫(31)が引退会見を開いた日、帝京大の後輩で誰よりも身近で寄り添ってきた練習相手の池田彩華(27)も一緒に引退した。

「山に修行とか全部についてきてくれた。一番つらい時期の9年間支えてくれた。だから、私から花束を贈らせてもらいました」。自身の引退会見の最後の一幕、松本は「すみません、皆さんの前で」と集まった報道陣に気を使いながら、池田に特大の花束を贈った。その直前に、松本に花束を贈る役目を終えていた池田は戸惑うように壇上でフラッシュを浴びながら思っていた。「やっぱ薫先輩は優しいな」。大粒の涙は止まらなかった。

2人の始まりは池田が帝京大に入学2年目、11年4月のことだった。入れ替わりに卒業した4学年上だが、社会人でも同大が拠点だった松本が全日本体重別に臨むにあたり、それまでのパートナーが引退、もう1人は故障で、池田に白羽の矢が立った。「私で務まるのか不安しかなかった」。できたのは開催地の福岡は九州出身で土地勘があったので、おすすめの飲食店を教えることぐらい。会場では「そんなに緊張しなくてもいいから」とロンドン五輪前の先輩に心配されるほどだった。その時はまさか、こんなに長く濃密な関係が始まるとは思ってもみなかった。

「昔はどうすればいいんだろうと考えて」体が動かなかった。松本の感覚は繊細で「違う」とよくいわれた。驚いたのはその緻密さ。「これでも、あれでもないなあ」と技をかけながら消去法を進め、言われたのは「腹筋に力が入ってないんじゃない」。そんな細かい部位まで意識したことはなかった。ぐっと力を込めると、投げられながらかつてない「フィット感」があった。足払いをかけられる側として脚を前に運ぶ時、コンマ何秒差の違いまで指摘される。期待に応えたい一心で、最初は稽古後の寮で、仲間と受けの復習をする日々もあった。そしていつしか「言われれば瞬時に対応できる」「薫先輩の技を私以上に知っている人はいない」と言い切れるまでになった。大学4年の時に就職先が決まらず。松本が「きなよ」とベネシードに誘って、相棒生活は続いた。柔道界でも異例の長期のパートナー。最中には「運命」と感じることもあった。「今日弟の誕生日なんだよね」「えっ、私もですよ」の会話の先に、5人きょうだいの4番目の2人は年齢を照合し合う。なんと性別の並びは異なるが、一番年上から弟までの各年齢差も合致。思わず仰天したが、その縁に互いにうれしくなった。

2連覇を目指したリオデジャネイロ五輪では銅メダルに終わったが、2人の関係は終わらなかった。それは松本が結婚、妊娠、出産をへても不変だった。なにより、またも縁は深くなった。17年6月に第1子となる長女を迎えた薫先輩、なんとその日は池田の誕生日だった。生きている限り重なる2人の歩みがまた色濃くなった。うれしさもつかの間、さらに感謝の出来事があった。8月には柔道着を着て畳の上に上がっていた松本だったが、それは大会出場を控えた自身の「受け」としてだった。産後の体で試合直前、試合日までしっかりといつもとは逆の役目を果たしてくれた。その優しさに胸を打たれた。「私の試合のことも出産前から考えてくれたみたいで」。東京五輪で再び金メダルに挑もうとする覚悟も目の当たりにしていた。だから、その日の試合を最後に残りの柔道人生はすべて薫先輩にささげることにした。池田にとって17年8月の試合が現役最後になった。

以降は徹底して受けに回り、松本の苦悩の日々をともに過ごした。出産の影響がもろに出たのは腹筋だった。おなかが大きくなり、「腹筋が割かれたような感じになるので、最初は回転運動もできないと言っていました」。腹に力が入らず、もがく。思うようにいかず、さらに子育てで十分な練習時間が取れることはなかった。熱を出したら練習途中でも迎えに行かねばならず、授乳の時間も作らねばならなかった。代わりに子供を預かり、練習を積んでもらうこともあった。昨年の6月には先輩の赤ちゃんの1歳の誕生日と、自身の27歳の誕生日を一緒に祝えたことが何よりの幸せだった。

東京五輪の夢はかなわなかった。昨年11月の講道館杯で1回戦負けした直後に、会場で引退を伝えられた。「不思議とあまり覚えていないんですよ」と区切りの日の記憶はあいまいだが、それはむしろそれが2人の終わりではなかったからかもしれない。松本は引退会見でアイスクリーム店への転身を仰天発表したが、「私も一緒にアイスクリーム屋をやるんです! 一緒に店頭に立ちますよ」と教えてくれた。誘われたわけではなく、ベネシードの事業の一環としてアイスクリーム販売があり、それを希望したら、まさか薫先輩も同じだったという。おすすめが豆乳こがしキャラメル味というのも共通で、いまはディッシャー(アイスクリームをすくう器具)の使い方に互いに悪戦苦闘している。だから、今後も「野獣の相棒」は変わらない。バレンタインデーにはお手製のクッキーや、日常的にアップルパイなどのお菓子作りが得意だったことも身をもって知っているからこそ、どんなアイスクリームのアイデアが飛び出すか、「受け」としてしっかり味わえるのも楽しみで仕方ない。

「幸せですよね、薫先輩みたいな人と一緒にいさせてもらえて。でも、これからも一緒ですから」。2人は柔道だけでなく、人生のパートナーとしてこれからも歩み続ける。

【阿部健吾】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

引退会見後、練習パートナーだった池田彩華さん(左)に、お礼の花束を渡し、涙する横で思いを語る松本(撮影・浅見桂子)
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畑岡奈紗、勝負の3年目へ両親との距離感が大きな力

今シーズンへの意気込みを語る畑岡(2019年1月13日撮影)

全米女子ツアーが開幕した。今年、ツアー挑戦3年目を迎えた畑岡奈紗(20=森ビル)は、開幕戦となったダイヤモンドリゾーツ・チャンピオンズで16位に終わった。スコアだけを見れば、いい結果とは言えないが、内容は今年への可能性を感じさせるものだった。

単身米国へ乗り込んで奮闘した1年目。2年目は、母・博美さんが米国での生活をサポートした。そして、3年目はフロリダ州のゴルフ場内に練習場やジェットバス付きの住居を借り、活動拠点を構えた。米国で環境が少しずつ整い、昨年以上の活躍が大いに期待できると思う。

19歳で米ツアー2勝を挙げた畑岡の活躍の陰には、母・博美さん、父・仁一さんの存在がある。博美さんは、昨年から試合に全戦付き添い、食事の世話や精神面のケアに務めた。プレーについて評価を加えるのではなく、プレー態度や、気持ちの持ちようについてさりげなく声をかける。昨年9月の日本女子オープンに出場したとき「以前はうまくいかないときにクラブに当たったりしていましたけど、そういうときに直接的には言いませんけど、気持ちが前向きになるように言葉をかけたりしました」と話していた。

父・仁一さんは元陸上の選手で、畑岡が小学生のころは「将来は陸上の短距離の選手に」と夢みて、競技の手ほどきもして入れ込んでいたという。中学生になってゴルフへ進んだ際にはショックを受けたというが、その後は「できることを」とゴルフ以外のサポートに専念している。

米国出発前に、笠間市で成人式を取材したが、その際も、仁一さんは、カメラマンとして畑岡の友人たちを集めて写真を撮ったり、小まめに動き回っていた。両親との距離感が、ゴルフで結果を出す大きな力になっていると取材をして感じる。

女子ゴルフを取材していると、いろんな親子関係に出合う。口うるさい親のアドバイスを嫌そうに聞いている選手。子どものゴルフのために仕事を辞めたり、引っ越しをしたり、家族の生活がその選手1人にかかっていると思わせるような選手もいる。親との関係がうまくいかずに、力を発揮できない選手もいると聞いた。そんなゴルフ界で、畑岡親子の関係は、理想型のように見える。

勝負の3年目、ツアー優勝、メジャー制覇へ向け、今季は昨年以上の活躍ができると期待している。

【桝田朗】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

ラグビーW杯がやってくる

ファンデルバルト日本の戦いに胸打たれ欧州断り来日

<外国出身選手の物語>

桜のジャージーを胸に戦う「外国出身選手の物語」の第5回は、長髪の王子様ことロックのビンピー・ファンデルバルト(30=NTTドコモ)。欧州の名門クラブからのオファーを断って13年に来日し、南アフリカ出身として初の日本代表になった。4人兄弟の末っ子で、童顔であることから家族からの愛称は「ベイビー」。女手一つで育ててくれた母リナさん(49)と、日本のために「ジャパンを世界8強に導きたい」と力を込めた。

18年11月、ニュージーランド戦での日本代表ファンデルバルト

初めて訪れた日本は暑かった。母国南アフリカからドバイ経由で丸1日がかりで到着。エコノミークラスの座席でファンデルバルトは夢を描いていた。ワイシャツにネクタイの正装だったから、空港では汗が止まらなかった。真夏の日差しがまぶしい13年8月6日。フランスのブリーヴ、スコットランドのエディンバラからの誘いを断って来日。その時から日本代表への思いがあった。

「日本のプレーが好きで、07年と11年のワールドカップ(W杯)を見ていたんだ。あの時のフランス戦(11年)。日本はいいタックルをしていたよね。なんで日本を選んだかというと、今は(強豪国と)力の差はない。(17年に)フランスと日本がやった時に、引き分けだったでしょ」

8年前の11年9月10日。W杯ニュージーランド大会の初戦で日本はフランスを本気にさせた。後半17分にPGが決まり21-25の4点差。残り10分で3連続トライを浴び21-47で屈したが、その試合をテレビで見ていた。当時22歳で、南アの強豪ストーマーズに月収4万円で在籍。弱者が果敢に強者に襲いかかる姿に胸を打たれ、イタリアのクラブを経て来日したのは、その2年後のことだった。

そして、15年9月19日のW杯イングランド大会。日本が34-32で南アフリカから大金星を挙げた試合も、大阪の自宅で見ている。

「日本はレベル的にどうかなと思ったけど、すごい試合だった。親戚が日本に来て、みんなで見ていたから南アを応援していたよ」

小学6年で170センチ、70キロあり、レスリングで全国大会8位になった。「南アの人はみんなデカイけど、その中でも僕はめちゃめちゃデカかった。10歳の時に12歳の試合に出ていた」。体の大きさを生かした突破力だけでなく、子供の頃はSOをこなし、FWでも日本代表の定位置であるロックと、フランカー、NO8もできる万能選手。高校では2年連続でU-18南アフリカ代表に選出された。

「スプリングボクス(南ア代表)のユニホームは高校生の頃に着たからね。日本代表を選んだ後悔は全くない。(父と)離婚をしてから、働きながら4人の子供を育ててくれた母がW杯を見に来てくれる。(1次リーグの)ロシア、サモアには勝てる。スコットランドに追いつき、超えられれば、トップ8も大丈夫」

18年6月23日、ジョージア戦後に母リナさん(前列左)と写真撮影したファンデルバルト

故郷に帰れば、姉が東京ドーム約250個分の農場を経営する。日本が好きになり、そこで和牛を飼育するようになった。W杯開幕前の9月6日に、日本代表は南アフリカと対戦する。

「南ア代表には友達がいるけど(母国という)そんな感情はない。勝ちたい」

持てる力を、日本にささぐ覚悟がある。【益子浩一】

◆ビンピー・ファンデルバルト 1989年1月6日、南アフリカ・ブリッツ生まれ。7歳からラグビーを始め、ネルスプロイト高卒業後にストーマーズU-19入り。イタリアのサングレゴリオに半年間在籍し、南アのサザン・キングズ、ブルズを経て、13年からNTTドコモ入り。17年11月に日本代表入りし、サンウルブズのメンバー入りも果たした。趣味は狩り。188センチ、106キロ。

◆代表でのプレー資格 現在の条件は(1)当該国・地域で出生している(2)両親、祖父母の1人が当該国・地域で生まれている(3)36カ月継続か通算10年にわたり当該国・地域に居住している。継続居住期間については20年12月31日以降、36カ月から60カ月に延長される。

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野獣と気遣い…松本薫が自分のためにやり切った

松本薫(2018年6月10日)

人一倍の気遣いの人だった。「野獣」というニックネームから想像する性格とはある種対極にあり、柔道着を着た時に発現する射抜くような視線の「獣性」との二面性が、松本薫(31=ベネシード)には常にあった。

さまざまな選手のコメントに触れたリオデジャネイロ五輪の中でも、鮮明に覚えている言葉がある。2連覇の夢が散った後の3位決定戦に勝ち、引き揚げてきた時の一言だ。「ここ(取材エリア)にいたから見えなかったと思うんですけど、ごめんなさい(手を合わせるしぐさ)しました」。質問は客席にいた家族へのあいさつについてだった。報道陣が「ここ」にいたことに気づき、気にしてしまう、しまえる実は繊細な心は、銅メダルで「煮えくりかえってます、腹の中は」といえど、変わらなかった。その態度が「気遣い」の人の本性を物語っていた。

その日も観客席にいた両親への思いが、そもそもの五輪へのモチベーションだった。中学生で柔道で五輪を目指す意思を固めたのは、「母さんを海外に連れて行きたいということだけ」。ロンドンで頂点を極めた後に、2連覇への気持ちが固まらない中で現役続行を決めたのも、競技のことには何も注文しなかった父に「リオに連れて行ってくれ」と初めて頼まれたからだった。自分本位に何かに猛進できる人ではなかった。周囲の期待、気持ちを敏感に感じることにたけ、苦しい姿は見せないように努めていた。

それは後輩たちへも同じだった。ロンドン五輪では男女通じて唯一の金メダリスト。柔道界の顔になった。「野獣」のニックネームは広く知られ、常人には思いつかないような言動は多くの関心を集めた。「急に生活が変わったので最初はびっくりしたけど、良い勉強になりました。外にでると松本薫だ、野獣だと。見られる立場はそれなりの行動も必要なんだなと、少しだけ。最初は嫌でした」。ラーメン屋で食事していても、SNSに投稿されるような環境に戸惑いもあった。ただ、そこで折れなかった。「人から見られることでその自分にならないといけないとか、金メダリストらしくしないといけないとか考えてしまって。でも本来の自分はそんな格好つけることもできないですし、結構みんなと騒いでいる方なんだなとわかったし、本当の私を見つけることもできました」。決して公の場では弱音は吐かなかった。

泣いたのは親友の前だけだった。代表選考会の4月選抜体重別選手権の準決勝で敗れると、ロンドン五輪銀メダルの杉本美香さんに連絡した。「厳しく指摘してくれる人がいない。足りないものがある」。代表には決まったが、勝てない。人知れず悩んでいたが、後輩たちの前で情けない姿を見せることはできない。親友の前でだけ泣いた。稽古中は泣けなかった。不安に揺れる心は、日本代表チームのために隠した。「金メダリストだから」。常にイメージを追った。それも気遣いができる人だったから。

思えば、奇特な発言も報道陣への心遣いだった側面はあるだろう。宿舎でヘッドライトでパンツを燃やしてしまった話や、「くるりんぱ」という新技の話、空港に戦隊もののお面を持参してきたり。松本に聞きに行けば外れなしという絶大な信頼を得ていたが、それも柔道界を盛り上げ、少しでも話題になるように努めるためだった気持ちもあるのではと、いまでは感じる。

担当したのはリオ五輪が終わるまでだったが、もう1つ印象的なフレーズがある。

「やめようと思ったことはしょっちゅう。十回以上あります。基本やめるスタンスで。何かあるともうやめようかなと思っている。やめようと思って、やめることはいつでもできるな、そうなったときに伝える番になったときに何も伝えることができないなと。ちゃんと逃げずにやりきって伝える立場に行かないとと思いました」。

家族ができ、子供もできた。その中で松本はついに自分のためにやり切ったのだろう。現役時代も誰よりも他人の気持ちを分かる選手だったからこそ、指導する立場となった「野獣先生」の未来も楽しみにしている。

【阿部健吾】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

伊藤華英のハナことば

結婚しました!/伊藤華英

京都で挙式しました

今回の「ハナことば」は、私自身の最近のことを書きたいと思う。

1月20日、結婚式を京都で挙げさせていただいたことを読者の皆様にお伝えしたい。ミセスになった。

実際、この私が「結婚したい!」そう思えたのもとても奇跡的なことだと改めて感じている。「結婚する人はビビッと感じるよ」とか、「出会った瞬間にこの人だってわかるよ」とか、よく聞いていた。しかし自分にそんなことが起こるのか、あまり信じられない感覚だった。

2012年ロンドンオリンピック後に競泳から引退して、早稲田大学の修士課程に通い、2014年には順天堂大学の博士課程に通った。その間、非常勤講師をしたり、他にも多くの仕事をさせてもらっていた。選手引退後、セカンドキャリアに積極的に取り組んできた。キャリアと結婚はまた別だとは思うが、私の場合、両方を同時進行させるのは難しいと感じていた。

心のどこかに「自分の人生は自分で確立する」という気持ちが強くあった。女性の幸せは何なのか。さまざまな場所で女性に特化した議論がされ、私自身も「女性のカラダ」について執筆している中で、結婚は少しぜいたくなものだと思っていた。

セカンドキャリアがとても重要なものと感じていた私には、キャリアと結婚を同時に考える余裕がなかったのだ。

友達と食事に行けば、バリバリキャリアを積んでめちゃくちゃかっこいい女性が多くいた。そんなことも影響した。キャリアはすごく大事。でも結婚したい。働く女性の悩みとはこんなものかなと考えていた。

現代は、選択の自由がありながら、さまざまなジレンマで悩んでいる女性たちは多くいる。

私はそんな悩みを聞きながら、自身に置き換えて考えていたが、あまりピンとこなかったりもした。毎日楽しいし、日々の仕事もやりがいがあり、仲間もいて充実していたということもあった。

博士号を無事取得し、一息ついて仕事にまい進していたころ、現在の夫となる男性と出会った。最初は仕事を一緒にしているだけの感覚だった。ところが、少しずつ時間を重ねていくうち「この人と一緒にいたら自分らしくいられるのでは?」と感じるようになっていった。まだ交際前のことだ。

ずっと決めていたことがあった。

「自分らしくありのままでいられる人に出会ったら結婚したいな」

こんな曖昧だが感覚的なものがあって、この感覚になれたのが現在の夫だ。「ビビッ」ではないが、私なりの感覚だ。

夫もスポーツ関係の仕事をし、経営などの専門知識も豊富で、頼りになる存在だ。

女性が結婚を決める大変さはきっとある。特にキャリアも考えると。もちろん男性にとっても、意味は異なるかもしれないが大変なことだろう。

京都での神前式。「着物が重いですね」と着付け師のかたに言うと、「お嫁に行く重さなんですよ」。帯1つ1つの意味も教えてくれた。昔の人のお嫁に行く覚悟がどのようなものだったのかを少しでも知ることができた。

日本の心は奥ゆかしく、深く、繊細だ。

最後は白無垢(むく)から色打ち掛けに。「嫁ぐ家の血が流れるという意味があります」。身が引き締まる思いだ。

日本の伝統と文化を感じ、未来へまた1歩進む覚悟ができた。

これから未来を生きる後輩たち、生まれてくる人たちに少しでも何かを残せたらと心から思えるきっかけを、結婚がくれた。

結婚の形は人それぞれ、人生の形も人それぞれだ。

私らしく、私たちらしく進んでいければと思う。

簡単ではありますが、結婚の報告とさせていただきます。

今後ともよろしくお願いいたします。

(伊藤華英=北京、ロンドン五輪競泳代表)

ラグビーW杯がやってくる

ヘル・ウベ「子供たちが誇れる父」責任力に体を張る

<外国出身選手の物語>

日本代表の「外国出身選手の物語」第4回は、ロックのヘル・ウベ(28=ヤマハ発動機)。トンガ出身で、1度はラグビー以外の道を目指したが、ニュージーランド(NZ)留学を経て来日した。日本人妻との結婚を機にプレーヤーとしても一人前に成長した。2人の子どものため、妻のために、日本を背負い体を張る。

ヘル・ウベ

ヘルは16年11月、アルゼンチン戦で初キャップをつかんだ。直前の代表合宿に追加招集され、いきなりスタメンで出場した。所属先の清宮監督から「トップリーグ屈指のボールキャリアー」と評される突進力を武器に、代表定着を狙っている。ヘルは「代表に入り、うれしかった。追加招集だったので、いきなりのスタメンは驚きました。子どもたちが誇れる父であるために、ワールドカップ(W杯)に出たいです」と父の顔を見せた。

ラグビー選手だった父を周囲の人から「すごい選手だ」と褒められるのがうれしくて、5歳から自然と競技を始めた。2人の兄と違う道に進むことを考え、教員を目指して中学は進学校に通い、1度は競技から身を引いた。高校で助っ人を頼まれて試合に出場すると、NZのスカウトの目に留まり、セントトーマスカンタベリー高に留学した。高校卒業後、NZで大学進学、オーストラリアで13人制のラグビークラブに所属するかで悩んだが、拓大進学を選択。「知り合いが誰もいない日本で生きる力を身に付けたかった」と振り返った。

拓大では初の外国人主将に就いた。のちに妻となる貴子さんに出会った。14年、ヤマハ発動機入社後すぐに首のけがを負うと、心配した貴子さんが東京から看病のために静岡・磐田市まで何度も通ってくれた。その姿にひかれ、16年7月にプロポーズした。

18年9月、ヘル(左から2人目)は勇太郎くんを抱え、瑛衣未ちゃんを抱く妻貴子さん(右)と一緒に記念写真に納まった

守るべき存在ができ、意識が変わった。食生活を見直し、スナック菓子や甘味を絶ち、飲酒もやめた。入社後2年間はリーグ戦でわずか6試合の出場だったが、この年は全試合に出場。日本代表にも初選出され、同年11月に婚姻届を出した。「妻はラグビーを知らないですが、いろいろ言ってくれて、気付かせてくれて、助けてもらいます」と感謝した。

17年6月に第1子の長男勇太郎くん、18年5月に長女瑛衣未(えいみ)ちゃんが誕生した。「子供ができ、さらに責任を感じた。モチベーションが上がって、もっといい選手になりたいと思いました」。

15年のW杯イングランド大会を見て代表に憧れを持った。当時は考えられなかったが、W杯出場のチャンスが目の前にある。「私のホームの静岡でやるアイルランド戦は出たいので、もっと力をつけたい」。家族のため、日本のためにボールを前に運び続ける。【大野祥一】

◆ヘル・ウベ 1990年7月12日生まれ、トンガ出身。セントトーマスカンタベリー高-拓大。14年からヤマハ発動機でプレー。16年8月に日本国籍を取得。同11月のアルゼンチン戦で代表デビュー。代表キャップ数11。趣味はゴルフ、子どもと遊ぶこと、好きな食べ物は鶏肉の唐揚げ。家族は妻と1男1女。193センチ、113キロ。

◆代表でのプレー資格 現在の条件は<1>当該国・地域で出生している<2>両親、祖父母の1人が当該国・地域で生まれている<3>36カ月継続か通算10年にわたり当該国・地域に居住している。継続居住期間については20年12月31日以降、36カ月から60カ月に延長される。

ピッチマーク

放映権協議棚上げでの試合継続、来季以降へ解決策を

19年の日本女子ツアー日程を発表する日本女子プロゴルフ協会の小林浩美会長(左)。右は原田香里副会長(2018年12月18日撮影)

ゴルフファンにとって、まずは安堵(あんど)の決着だっただろう。

昨年12月18日の19年ツアー発表時に日本女子プロゴルフ協会(LPGA)が1度は中止と発表していた3試合の継続決定は朗報だった。今年に入ってLPGAと主催者が再交渉をはじめ、大会継続で合意。KKT杯バンテリンレディース(4月19~21日・熊本空港CC)、中京テレビ・ブリヂストンレディース(5月24~26日・中京GC石野C)、ミヤギテレビ杯ダンロップ女子(9月27~29日・利府GC)の継続が25日に正式発表された。

昨年と比較し、19年ツアーは1試合増の39試合。37億3836万円だった賞金総額は39億4500万円となり、7年連続で過去最高額を更新した。また同ツアー発表時にLPGAウィメンズ選手権(仮称)として発表されていた国内メジャー戦も昨年までと同様、日本テレビ主催のワールド・サロンパス・カップとして5月9~12日、茨城GCで開催されることも同時に発表された。ゴルフファンも胸をなでおろしたに違いない。

LPGAが目指す放映権一括管理の方針に合意できなかったとして同3大会の中止が発表された後、主催者となる日本テレビ、同系列局には選手約70人の連名による開催存続を求める「要望書」やスポンサー、地元ゴルフ関係者らの開催継続の声が届いた。もともと主催者は1度も中止と発表しておらず、粛々と開催準備も進めていたという。「選手ファースト」「ファンファースト」を重要視し、放映権の協議を棚上げした形で契約を結んでいた。

気になる話を耳にした。今回、表面化したのは日本テレビ系列局の大会のみだったが、ツアー関係者は言う。「日テレ系列局の試合だけでなく、15~16試合の主催者とは放映権について継続協議になっています」。LPGAと主催者は1年ごとの契約。放映権に関し、両者が納得できる着地点を見いださなくては同じ問題が再燃する可能性が20年以降に残っている。

年間試合数や賞金総額の増減はゴルフ人気の指標の1つと言えると思う。やはり「減少」「中止」という言葉は世間的にもマイナスイメージを与えやすい。開幕から毎週のように大会が開催されるある今だからこそ、数試合が「中止」と再び発表されるような事態は回避してほしい。【藤中栄二】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

We Love Sports

常勝神戸製鋼復活の鍵 グラウンド内外で真の一体感

神戸製鋼を本年度限りで退団する右からWTB大橋由和、FB正面健司、CTB今村雄太(2019年1月24日撮影)

「イベントを運営する時、優秀な人材は駐車場を担当するといい」。イベント前には参加者を最初に出迎える役となり、終了後には帰り際に本音が聞こえてくる。そう学んだ大学時代の授業を自然と思い出したのが、1月24日の夜だった。

神戸市内のホテルで、ラグビーの日本選手権を18大会ぶりに制した神戸製鋼の「優勝報告会」が行われていた。「優秀な人材」かはさておき、他社の担当記者と会場外の通路で選手を待つことになった。

招待した側の選手はもちろん、最後まで会場に残る。まずはクロークで手荷物を受け取った招待者が、次々と上機嫌な様子で私たちの前を通り過ぎていった。取引先、ラグビー関係者、OB…。アルコールが入っていたこともあるだろうが、全員がいい笑顔だった。

「ええ会やったなあ」

「なんか久しぶりに○○の顔を見たわ」

「あっ、○○さん! 元気にしてんの?」

その場にいるだけで、報告会の空気感が分かる。記者同士でも「優勝するってこういうことなんですね」とうなずき合った。取材する側も優勝の重みや意味を、実感した瞬間だった。

この日の午後2時、本年度限りでの退団選手が発表されていた。話を聞きたかった3人は、最後の最後に会場から出てきた。

退団後は社業に専念するWTB大橋由和(34)の表情はすがすがしい。大阪・大工大高(現常翔学園)、同大を経て07年度に入社した男は「僕らの時代はなかなか勝てなかった。『どうにかせなアカン』と思い続けて、やってきた。最後(トップリーグの)順位決定トーナメントに入って、すごくいいチームになったと実感した」と切り出した。

「(日本選手権準決勝の)トヨタ戦で倒れても、みんなすぐに立ち上がっていた。口ではそう言っても、なかなかできない。『チームのため』っていうのが、客席から見ていても分かった。『もうこのチームは大丈夫や。さらに強くなる』って思いましたよね」

優勝の余韻で忘れそうになるが、最近5シーズンの神戸製鋼はチームとしての文化、土台を築くのに苦労していた。

◆14年度 ギャリー・ゴールド・ヘッドコーチ(HC、南アフリカ出身)

◆15年度 アリスター・クッツェーHC(南アフリカ出身)

◆16~17年度 ジム・マッケイHC(オーストラリア出身)

◆18年度 ウェイン・スミス総監督(ニュージーランド出身)

指揮官が変われば、選手起用、戦術の色も変わる。特にゴールド、クッツェー両HCは他チームに引き抜かれるような形での退団だった。「神戸のやりたいラグビーが分からん」という声を聞くこともあり、選手らの困惑は伝わってきた。

ニュージーランド代表「オールブラックス」のアシスタントコーチとしてW杯連覇に導いたスミス総監督は、今季の就任後「誰のためにプレーしているのか」を何度も選手たちに考えさせた。シーズン前には「レガシー活動」と題し、高炉を全員で訪問。練習中のミニゲームなどで用いるランダムに振り分けられたグループにも「加古川」など、製鉄所の名がつけられた。

グラウンド内外での意思統一により、退団選手の1人で元日本代表の今村雄太(34)は「メンバー外にも『メンバーのために』という、今までにない感じがあった。『このチームは勝つな』と思った。『成長しているな』と感じた」と優勝報告会後に明かした。

大橋は今季のリーグ戦出場ゼロ、今村は同2試合。優勝に大きく貢献した元ニュージーランド代表SOダン・カーター(36)はそういった仲間に対して「(過去に)いろいろなチームにいたけれど、我々のチームのバックアップは素晴らしかった。みんなで試合に出たいけれど、チームに入った以上、満足に出られない選手もいる。それでも(実戦的な練習などで試合メンバー以外が)高いスタンダードを保ち、試合に臨ませてくれた」と感謝する。

大橋、今村と同様にチームを離れる元日本代表FB正面健司(35)もリーグ戦出場なし。控えチームでのプレーが続いたが、腐ることない背中を多くの選手に示した。その正面はまず「代表2キャップしかない選手をずっと使い続けてくれた。(優勝で)みんなの喜ぶ顔が見られたのは良かった」と神戸製鋼への思いを言葉にし、同時に1選手としての本音も明かした。

「でも、僕は1試合も出られなくて複雑でした。優勝した瞬間、試合に出られていない若い選手も涙を流していた。う~ん…。『それだけチームのために尽くせた』という意味でもあるんでしょうが…」

報告会、お礼参り、ファンへの感謝イベントが続いた1月。会社、地域を元気にする「優勝」の価値は、チームに携わった全員に刻まれた。では、本当の常勝軍団となるために必要な要素とは何か。神戸を愛した正面だからこそ、若手の奮起を願い、最後の言葉を残した気がした。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大とラグビー部に所属。13年10月に大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月から西日本の五輪競技を担当し、ラグビーやフィギュアスケートを中心に取材。

優勝を決めて喜ぶ神戸製鋼フィフティーン(2018年12月15日撮影)

ラグビーW杯がやってくる

ラファエレ日本代表の誇り胸に「母国サモアに勝つ」

<外国出身選手の物語>

18年10月、日本対世界選抜 後半、トライを決めるCTBラファエレ・ティモシー

日本代表の「外国出身選手の物語」第3回は、CTBラファエレ・ティモシー(27=コカ・コーラ)。サモア出身でプロ選手を夢見て18歳で来日。15年ワールドカップ(W杯)イングランド大会での日本代表の活躍に刺激を受け、ここ3年で急成長した。潜在力を秘めた大器に迫った。

   ◇   ◇   ◇

今や日本代表に欠かせないキーマンだ。左足から放たれる正確なキック。相手をかわす、柔らかいステップ。規律を守った激しい防御も兼ね備えた抜群の安定感を誇る。ラファエレは「W杯日本大会はラグビー人生の中で『特別な舞台』になる。チャンスをくれた日本に恩返しがしたい」と、期待に胸を膨らませた。

4歳の時、家族でニュージーランド(NZ)へ移住。6歳で競技を始めた。細い体でタックルを怖がり、父からは「ビビるならラグビーをする資格はない」と口酸っぱく言われた。体が成長するにつれて自信もつき、強豪のデラセラ高に進学。日本代表NO8のツイ・ヘンドリックも在籍し、全国優勝を果たした。山梨学院大(関東リーグ2部)の吉田浩二監督にスカウトされ、「トップリーグ入り」を夢見て来日を決意。大都会のイメージとは異なり、「めっちゃ田舎」という山に囲まれた地で修行の日々が続いた。毎朝6時からランニング10キロ、授業の合間のキック練習、夕方の全体練習に臨んだ。4年時には1部への昇格に大きく貢献した。コカ・コーラの向井昭吾GM(当時)に「努力次第で日本代表になれる」と誘われて、加入した。

13年12月、関東大学リーグで11年ぶりの1部昇格を決めたラファエレ・ティモシー(前列右)擁する山梨学院大の選手たち

転機は15年W杯だった。日本代表が優勝候補の南アフリカから大金星を挙げるなどした活躍に奮起した。「僕もあの舞台に立つ。ツイ先輩みたいになる」。翌16年1月に目標設定としてノート裏表紙に「日本代表になる」と決意を記した。己の可能性を信じ、毎日、その言葉を見返して、極限まで追い込んだ。チームが契約していたNZ代表のニック・ギルS&Cコーチから“王国メニュー”を作成してもらった。練習後、決められたウエートとシャトルランを反復し、10カ月で土台を完成させた。体重は7キロ増の98キロとなり、才能が一気に開花した。ジョセフ新体制となった同11月のアルゼンチン戦で代表デビュー。これまで、アジア選手権を除く全16試合で14試合に出場し、指揮官からの信頼も厚い。

子供の頃はサモア代表を目指したが、桜のジャージーを着る度に日本代表としての自覚が増した。「日本人としてプレーしたい」。17年10月に日本国籍を取得。日本語も堪能で、代表では外国出身選手の通訳も担い、潤滑油となっている。W杯1次リーグでは母国のサモアと対戦する。「(目標の)8強進出には越えないといけない壁。母国に勝って、日本代表としての誇りを見せたい」。27歳の大器は、強い決意を胸に8カ月後の夢舞台に臨む。【峯岸佑樹】

◆ラファエレ・ティモシー 1991年8月19日、サモア生まれ。4歳からNZで育ち、18歳で来日。山梨学院大-コカ・コーラ。16年11月に代表デビュー。代表キャップ14。17年に日本国籍取得。趣味は愛犬と遊ぶ。イケメンで女性人気も高い。愛称はティム。家族は妻。186センチ、98キロ。

ジョージア戦で相手を振り払いながら突進するCTBラファエレ・ティモシー(2018年6月23日撮影)

ピッチマーク

松山の背中追う金谷拓実20歳にして世界で戦う覚悟

金谷拓実(2018年11月10日撮影)

意外だった-。1月上旬の米ツアー、ソニー・オープン(ハワイ・ワイアラエCC)を取材した。アマチュア男子で将来を有望視される金谷拓実(20=東北福祉大2年)が、参戦し、米ツアーデビューを果たした。結果は、初日から71、70の通算1オーバーで予選落ち。それでも、普通だったらアマで米ツアー初参戦。充実感に浸っていると思いきや、試合後は笑顔をほとんどみせない、悔しさいっぱいの表情だった。

そこには参加することに意義があるといった精神は存在してはいない。20歳にして、その表情はもうプロのそれだった。「自分のプレーをして負けたなら納得する部分もあるとは思うけど、それがまったくできなかった。悔しいです」。世界のトッププロに加え、日本からも、大学の偉大なる先輩、松山英樹、池田勇太など並み居る有力選手が相手だったとはいえ、納得はしない。世界で戦っていく覚悟が、20歳にしてすでに備わっている。

追う背中がある。それが、自分を見失わず、今に甘んじない1番の要因だろう。大会期間中、先輩、松山とともに練習をこなし、食事をともにした。技術はもちろん、大会に臨む姿勢、ルーティンなども間近で見続けた。「多くを語らない人ですが、背中を見るだけで違う」。

決勝ラウンドが始まった3日目からはギャラリーに交じって、松山のプレーを見守った。ツアー5勝を挙げ、ストイックなまでに米ツアーで戦い続ける先輩の姿は、世界で戦う上での指針になっているんだろう。ラウンド中、失礼ながら何度か声をかけさせてもらったが、視線はほとんど松山から外さなかった。その姿勢が金谷の思いを物語っているように思う。

5歳で両親の影響で競技を始めると、負けん気と探求心でめきめきと頭角を現してきた。高2だった15年の日本アマチュア選手権を史上最年少で制覇。大学1年の17年には日本オープンで2位。さらに、昨年10月には松山以来、日本勢2人目となるアジア・パシフィック・アマチュア選手権を制覇し、「マスターズ」と「全英オープン」の出場権を得た。今度は世界最高峰の舞台で松山と再会する。

マスターズが、約3カ月に迫っている。そこに向け、昨年、松山や宮里優作からアドバイスを受けた飛距離アップに取り組んでいる。「練習以上のものは出せない。自分のプレーをいかに試合で出せるか。そういう意味では今回、出場したことは経験になった。マスターズではまずは予選を通過してベストアマを目指したい」。目の前のことに一喜一憂しない高き“プロ意識”を持ち合わせる20歳の世界挑戦。しばらくは目が離せそうにない。【松末守司】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

◆松末守司(まつすえ・しゅうじ)1973年(昭48)7月31日、東京生まれ。06年10月に北海道本社に入社後、夏は競馬、冬はスポーツ全般を担当。冬季五輪は、10年バンクーバー大会、14年ソチ大会、今年3月の平昌大会と3度取材。五輪担当を経て12月からゴルフ担当。

東北福祉大の先輩松山英樹(左)と握手する金谷拓実(2018年11月8日撮影)

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啓光時代6度頂点…記虎監督が語ったラグビーの本質

女子ラグビーのパールズを指導する記虎監督(中央)

名古屋駅で電車を乗り換え、40分ほど揺られると近鉄四日市駅に着く。そこから田舎道を車で20分。天然芝のグラウンドに、ラグビーのジャージーを着た女性が集まってくる。正月気分が過ぎた1月中旬。遠くに見える山には、白く雪がかかっていた。

「高校生を教えていた時とは、少し違うかもしれないですけどね。でも彼女たちは、東京五輪や、日本代表としてW杯を目指しているんです。ほら、あそこ、早く来て、1人で走っているのは、日本代表のキャプテンなんですよ」

記虎敏和監督(66)は、そんな風に、選手1人、1人を詳しく教えてくれた。全国高校ラグビーで、大阪の名門だった啓光学園(現常翔啓光)を日本一へ導くこと計6回。04年度には総監督として4連覇を達成した。ロイヤルブルーのジャージーは、全国の高校生ラガーを震え上がらせるほどに強かった。

京都の龍谷大監督を経て、三重県に本拠を置く女子ラグビーのパールズに移ってきたのは、3年前のことだ。21年三重国体での優勝を目標に掲げ、16年に設立。翌17年度には7人制の太陽生命ウィメンズで初出場初優勝の快挙を達成した。チーム名には「真珠のように世界から注目され、強く優しい志を持つように」という思いが込められている。

選手はみな、仕事をこなしながら夢を追い続ける。昼間は介護の仕事、夕方からはマネジャーをする堀野奈久瑠(25)は、軽自動車で駅まで送ってくれる道すがら、こんな話を聞かせてくれた。

「みんな人生をかけて、ここに来ているんですよ。女子なら結婚に憧れたりする、そんな年ごろじゃないですか。でも、それよりラグビーなんです。夢とか、目標とか、真剣にできるのは今しかないですから。私も、親を説得して三重まで来ました」

BKの保井沙予(26)は、天理大時代は陸上部で400メートルハードルの選手だった。大学の授業で、同じ天理大出身の記虎監督と出会い、本格的にラグビーを始めたのは卒業後のことだ。「陸上は真っすぐに走らないといけない。でも、ラグビーはステップを切ったり、真っすぐに走らなくてもいいところが面白いです。トライを取った瞬間が最高。目標は東京五輪です」。

FW末結希(25)の弟拓実は、帝京大のSHとして1月2日の大学選手権・天理大戦に途中出場した。日本代表として17年W杯アイルランド大会に出場した姉は「小学生の頃から花園の高校ラグビーを見ていました。記虎監督には仲間を信用してプレーすることが1番大切だと教わりました」。

大体大出身で日本代表主将を務める斉藤聖奈(26)も「人としてどうあるべきかを、教えてもらっています。人間性は1番学んだこと。今は21年W杯を目指しています」。そう話す彼女たちの目は、輝いていた。

66歳になった記虎監督の指導者としての理念は、一貫している。

「ラグビーは痛い、きつい、しんどい。みんなそう思っているかも知れないけれど、本当は違うんです。ラグビーとは、ボールを使う鬼ごっこ。楽しいものなんです。私自身、昔はそれが分からずに、理不尽で頭ごなしの指導をしていたこともあった。それが、ニュージーランド(NZ)に行って、考え方が変わった。彼らは強い。強いのに、真剣に練習をしているグラウンドから、笑い声が聞こえてきた」

それはまだ、啓光学園が強豪と呼ばれる前のことだった。今から30年と少し前、昭和の終わり。大体大を率いていた元日本代表WTBで「世界のサカタ」と呼ばれた坂田好弘監督(現関西協会会長)に誘われ、NZ遠征に付いていった際に目にした光景が、今でも忘れられないという。

「3回くらい大阪予選では決勝まで行ったのに、勝てない。もう1歩の壁が、超えられない時期でした。なぜ勝てないのか、自分自身、葛藤していた時に、NZでラグビーの本質を知ることができた。例え、自分のイメージと合わなくても、子供たちにイメージがあれば、それでいい。楽しみながら考え、自分たちで見つけることが大切なんです」

今年9月にはアジア初開催となるラグビーW杯が日本で開幕する。

「楽しみですよね。ラグビーに興味を持ってくれる女の子や、子供たちがもっと増えてくれたらいい」

かつて高校ラグビーで「無敵の監督」として花園を沸かせた人は、今も愛するラグビーに情熱を注いでいた。【益子浩一】

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震災から24年…今も昔も神鋼ラグビーは復興の象徴

神戸製鋼V7の当時を振り返った藤崎泰士さん(撮影・松本航)

1995年(平7)1月17日、午前5時46分。神戸市須磨区の自宅で、神戸製鋼ラグビー部の主務を務めていた藤崎泰士さん(57)は阪神・淡路大震災を経験した。24年前の記憶は「よく『大変だったでしょう?』と聞かれるんですが、あまりそんな覚えがないんです。みんなが助け合っていたから」と刻まれている。

震災2日前の1月15日に行われた日本選手権決勝(東京・国立競技場)では大東大を102-14で下し、7連覇を達成。平尾誠二らメンバーに神戸へ戻る新幹線の切符を手渡し、祝日だった翌16日の月曜日は自由行動となっていた。

それぞれが優勝の余韻に浸り、日常に戻るはずだった火曜日の朝。神戸の中心地「三宮」から地下鉄で約20分ほど西に進んだ妙法寺駅近くに、藤崎さんの自宅はあった。比較的被害は少なく、揺れが収まるのを待つと「会社に行かなアカンな」と外を眺めた。

いつものように南方の海へと目をやり、そのまま東へ視線を向けた時だった。

「本社があった神戸の中心地から、煙が上がっていたんです。それでも出勤しようと思って家を出たら、電車も止まっている。それで事の大きさを実感しました」

行き先は会社から、両親のいる西宮市内の実家に変わった。有馬を経由しながら山を抜け、数時間かけて車で全壊の実家にたどり着いた。「何とか大丈夫か…」。無事を確認して、須磨に戻ると1日が終わった。

一方、神戸市東灘区には10階建ての社員寮があった。その1階部分はつぶれ、隙間をこじ開けて外に出たラグビー部員たちは、がれき処理、見回りなどで地域住民の力になった。練習場は液状化現象を起こし、本社も倒壊。藤崎さんは急きょ神戸市中央区の対策本部で日本各地から届く支援物資を仕分け、運ぶ作業にあたることとなった。

「本当にたくさんのものをいただきました。食べ物はもちろん、バイク、自転車、仮設トイレまで。それがトラックで運ばれてくるのを、泊まり込んで何日間か手伝いました。『助けられている。すごいな』と思っていましたよ、本当に」

その作業が落ち着くと、職場は加古川市へ移った。

「会社自体が大変やったから『ラグビー部をどうする』というのを、考えている余裕はなかった。ラグビーの仕事をいつからしたのか、覚えていないんです」

神戸製鋼所は高炉(溶鉱炉)の損壊で、企業自体の存続も危ぶまれた。そんな状況下とは思えない記憶が、藤崎さんにはある。

「会社にいて、『こんな時にラグビーなんかやっている場合か』っていう雰囲気はなかったんですよね」

所属する資材部の部長からは「ラグビー部を動かすには、どないしたらええんや? やりやすくなることがあったら、言うてみい」と尋ねられた。スタッフの仕事場が別々で、マネジャーと連絡が取れないことを伝えると、そのマネジャーは異動となり、藤崎さんと同じ加古川にやってきた。

「いろいろ考えて、やってくれた恩がありました」

社外でも神戸製鋼に対する優しさを感じた。9月に練習場が復旧するまでは週1回程度、西区にある神戸高専のグラウンドを借りた。北区の「しあわせの村」にある芝生で、体を動かしたこともあった。ゴールデンウイークには「神鋼さん、困っているでしょうから、何日間かうちに来ませんか」とヤマハ発動機の部長から声をかけられ、静岡で前人未到の日本選手権8連覇に向けた練習を積んだ。

翌96年1月28日、全国社会人大会の決勝トーナメント1回戦でサントリーと17-17の引き分け。トライ数で上回った相手の準決勝進出を許し、神戸製鋼の連覇は「7」で止まった。

「地震があった翌シーズンやから『負けられへん』とも思っていた。あっけなかったね。今思ったら、練習不足かもしれんし、油断かもしれんし、それとも違う何かがあったかもしれん。でも『地震のせいで負けた』とは、みんな思ってへんかったと思う。少なくとも、自ら言っている人間はいなかったね」

当時、ラグビー界に根強く残っていたのはアマチュアリズム。現在ほど地域と企業チームの接点は多くなかった。「誰のために戦うのか」と考えれば、「会社や家族のため」だった。

震災を通じて受けたのは、直接的なエールだった。

「近所の食べ物屋さんとか、取引先もそうやし、そういうところで神戸製鋼に対する応援っていうのはよく感じた。いろいろな人と接して、顔が見えている人から『頑張れよ』って言ってもらえることが多かったよね」

2018年12月15日、神戸製鋼は18大会ぶり10度目の優勝で、平成最後の日本選手権を締めくくった。西の名門は今季の主役となり、関西ラグビー界全体が息を吹き返しつつある。震災から24年となったこの日、NO8前川鐘平共同主将(30)は「1・17」の重みを説いた。

「今日という日は大切な日。誰のためにラグビーをするのか。そこをぶれずにやっていきたい。仲間のため、会社のため、ファンのため、ラグビー界のため」

春には新元号となり、ますます震災の記憶は過去のものとなるだろう。それでも過去、現在、未来をつなぐ使命を持ち、神戸製鋼は復興の象徴であり続ける。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大とラグビー部に所属。13年10月に大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月から西日本の五輪競技を担当し、ラグビーやフィギュアスケートを中心に取材。

神戸市内での練習前に黙とうした神戸製鋼の選手、スタッフたち(撮影・松本航)

We Love Sports

早大ラグビー佐藤主将が区切り、商社で春から再出発

全国大学選手権準決勝で敗退し、大学生活を振り返る佐藤真吾主将(撮影・峯岸佑樹)

ラグビーの伝統校の主将が、競技に区切りをつけた。全国大学選手権で最多15回の優勝を誇る早大(関東対抗戦1位、2位枠)のフランカー佐藤真吾主将(4年)が第一線から退き、今春から新たな人生をスタートさせる。

2日の同選手権準決勝で明大(同3位、4位枠)に27-31で惜敗し、創部100周年でのメモリアル優勝はかなわなかった。佐藤主将は後半35分から途中出場。大声を張り、力強いタックルでチームをけん引した。試合後、9年間の競技人生を思い返し、かみしめるようにこう振り返った。「主将としての反省は多々あったが、やるだけのことはやった。決勝で(部歌の)『荒ぶる』を歌えず、悔しいけど、最高の仲間たちと時間を共有できたことは幸せ。ラグビー人生に悔いなし」。

179センチ、93キロ。FWとして決して体は大きくないが、豊富な運動量とタックルを武器に大学2年の時からレギュラーを確保した。しかし、相良南海男監督が就任した昨春以降は、主将ながら控えでの出場が増えた。試合に出場出来ず、試合後の記者会見のみ対応することもあった。自身と葛藤する日もあり「正直、主将が『何で、俺やねん!!』という気持ちの時もあった。そのため、前だけを見つめることに集中した。頭を整理して、チームが勝利するために『何が出来るか』を考えることにした」。

高校日本代表や世代別日本代表など全国で活躍する仲間に囲まれる中、過去に代表経験もない。早大入学時から「ラグビーは大学まで」と決めていた。主将経験も一度もなく、自身のことしか考えない自称「自由人」だった。山下大悟前監督から「主将になってほしい」と打診を受けた時は、戸惑ったが「これも運命」と決意を固めた。伝統校の重圧などで寮の一人部屋にこもって、チームについて考える日も多々あった。日本代表と同じテーマである「ONE TEAM」を志し、Bチーム以下の選手の気持ちも理解して、Aチームとの垣根をなくした。これまでなかった部員全員でBチーム以下の試合も観戦することを徹底した。「勝つためにはチームの一体感が重要だった。全国選手権も練習試合も同じ。どんな試合でも、部員137人全員で試合に臨むという気持ちが大切だと思った」。

同選手権準決勝前日の1日には、年越し恒例の「元旦ゲバ」が実施された。試合に出場出来ない4年生と直前までメンバー入りを目指したBチームが試合して、その“本気の勇姿”をAチームが目に焼き付けた。結果的に10大会ぶりの日本一とはならなかったが、「これも勝負の世界」と現実を受けとめる。12日の明大と天理大(関西リーグ1位)との決勝を秩父宮ラグビー場で観戦していた佐藤主将の言葉が印象的だった。「やっぱり、仲間とこの舞台に立ちたかった。夢はかなわなかったけど、来年の決勝は、このスタンドから『荒ぶる』を大声で歌いたい。仲間に感謝だし、ラグビーを続けて本当に良かった」。

元旦ゲバで果敢なプレーを披露する早大の選手たち

大学卒業後は、第一志望の総合商社で働く。伝統校の主将を務め、卒業後にラグビーを続けないのは珍しいが、海外での仕事を夢見て「人間としての深み」を追い求めるという。ラグビーでの大学日本一の夢はなし得なかったが、今春には22歳の新社会人としての夢実現に向け、確かな一歩を踏み出す。

全国大学選手権準決勝で敗退し、後輩らに言葉をかける佐藤真吾主将(中央)(撮影・峯岸佑樹)

【峯岸佑樹】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

伊藤華英のハナことば

オーストラリアがスポーツ強国である理由/伊藤華英

今年初めての「ハナことば」なので、私自身が年末年始を過ごしたオーストラリアのことを書きたいと思う。

シドニーのラグビーに関しては以前のコラムで書かせてもらったが、今回は「スポーツと日常」という観点で書いていきたい。

2017年11月4日に行われたラグビー代表戦、日本-オーストラリア

シドニーには親戚が住み、兄もシドニーで育った背景があるので、幼少期からシドニー、オーストラリアには親しみがある。現役引退後は、年末年始のオーストラリア滞在がほぼ恒例になっている。もちろん行けない年もあるが、感覚的にはそんな感じだ。

今回の滞在では、シドニーはもちろん、首都であるキャンベラ、ゴールドコーストから約1時間のバイロンベイを訪問した。

シドニーとキャンベラには知人や友人も多く、会ってたくさん話した。彼らとの話題で共通していたのは「2019年はラグビーワールドカップだね!」。

ラグビー(15人制、13人制)はオーストラリアでとても人気があるし、注目するのは当たり前ではある。代表チームはワラビーズという名称で親しまれている。2015年のイングランドで行われたラグビーワールドカップの決勝戦は、ニュージーランドのオールブラックス対オーストラリアのワラビーズ。勝ったのはニュージーランドだった。

競泳でも強豪国のオーストラリア。しかし国の人口は、2018年で約2500万人だ。比べて日本の人口は約5倍の1億2600万人。この人口差で、この競技成績。考えるところもある。

私は、スポーツが生活の中でとても重要な役割を果たしていると思うし、この価値を伝えていかなければと考えるからこそ、ここに注目したいのだ。

クリケット、オーストラリアンフットボールなど、日本ではなじみのないスポーツも大人気だ。今回の滞在中は、クリケットの国際試合がバーでずっと流れていた。

2017年に公開された映画「ライオン」。グーグルアースで自身のインドの故郷を探すという内容で、主人公のインド人の里親になったオーストラリア人とクリケットを家族でするというシーンがあった。私の親戚の家はシドニーのノースにあり、そこの近所では子供たちがクリケットのバットを持って遊んでいた。それくらい彼らの生活に根付いている。日本で言えば、野球のキャッチボールのような感覚だろうか。

写真左は朝7時からオープンしているプール。右はAISの体験型施設

オーストラリアには、私が大好きな文化がある。朝から運動をする文化。カフェ文化。この2つだ。

1つ目の、朝から運動をする文化。

オーストラリア滞在中は、日本にいるときより泳ぐ(休暇中ではあるが)。朝7時からプールはオープンし、カフェも同時間から始まる。そのプールは、ビジターの私たちももちろん利用可能。地元の人たちが思い思いのフォームで水泳を楽しみ、その隣にはコンペティター。選手たちもプールから湯気を出しながら必死に泳いでいる。

「体験しないとそのひとの痛みや苦労はわからない」

昔、誰かに言われた言葉を思い出す。隣で選手たちが泳ぐ姿をみんなが見て、「頑張れ」と心の中で応援する。身近に頂点を目指す選手がいる。イメージができるのだ。どれだけすごいことなのか。

これを感じたのはキャンベラにあるAIS(オーストラリアン・インスティチュート・オブ・スポート)でもだ。私はキャンベラの日本大使館にも訪問させていただき、また友人にも会いに行った。その際に日本のJISS(国立科学スポーツセンター)のモデルにもなったAISに訪問した。もちろん、泳ぐ。

現役時代は合宿でも試合でもよく訪れ、どちらかというと「苦しい」場所だったが、今は全くその印象はない。素晴らしい施設だなと感じる。今になって気がつく。素晴らしい環境で試合をし、競技を続けることができていたんだと。

プールに入り、「ビジターですが、泳げますか?」と聞くと「もちろん!キャップはありますか?」など優しく答えてくれた。

こんなトップアスリートが利用するプールでも、ビジターがいつでも利用できる。水着も競技用でなくても問題ないし、リラックスして泳ぐことができる。

また、毎日実施しているAISのツアーがあり、これも予約なしで参加できる。有料だが30人くらいが参加していた。全部の施設を案内してくれて、オーストラリア選手の紹介もしてくれる。競技について知ることができ、いい時間だった。

ツアーの終盤には体験型の施設があり、オリンピック競技、パラリンピック競技を体験できる。クライミングや自転車に挑戦した私は、頑張りすぎて汗だくになった。

「ここで最後なので、もう解散してもいいですよ」

ガイドをしてくれた女性は言った。私は、失礼かなと思いながら年齢を聞いた。びっくりしたことに彼女は「シックスティーン」と答えた。なんと!「16歳」!!。夏休みだから手伝っているとのこと。自身はホッケーの選手で、州の中で一番を目指していると話していた。

この若者がこの施設を説明する。しかも、カンペもなく堂々と。

「スポーツが素晴らしい」

この文化が根付いている場所だ。そう感じた。

最後にカフェ文化。

朝7時からオープンし、14時から16時には閉まってしまうが、朝泳いでカフェに行くこの時間がまさに「comfortable」。心地が良い。

2019年、日本はゴールデンイヤーズへ突入した。スポーツの世界大会が連続して国内で開催される。

日本ができること、私たちができること、自身ができること。それぞれが考えていく価値はある。

今年も「ハナことば」よろしくお願いいたします。

(伊藤華英=北京、ロンドン五輪競泳代表)

ラグビーW杯がやってくる

トンガ出身バル、ラグビー「愛」で日本の歴史変える

<外国出身選手の物語>

パナソニックの練習で声を張るバル・アサエリ愛(撮影・峯岸佑樹)

日本代表の「外国出身選手の物語」第2回は、プロップのバル・アサエリ愛(29=パナソニック)。トンガ出身で経済的に家族を支えるために15歳で来日。NO8からプロップに転向して2年で代表入りした“逸材”は、桜ジャージーの重みをかみしめて、初のW杯(ワールドカップ)出場を狙う。

   ◇   ◇   ◇

来日して14年-。バルは、ここ2年で急成長を遂げた。187センチ、116キロの巨体で、得意のボールキャリー(保持)とスクラムやタックルなどで体を張り続ける。流ちょうな日本語でコミュニケーションを図り、チームを献身的に支える。バルは「日本に来て人生が変わった。活躍することで家族が幸せになれる。本当に感謝しかない」と感慨深げに語った。

元トンガ代表の父を持ち、5人兄姉の末っ子。12歳で競技を始め、トンガの中学校で寮生活を送った。特に食事面で苦労し、毎日タロイモ中心の同じメニューで、量が足りず空腹の日々が続いた。購買で小遣いの2パアンガ(約100円)を使い、パン1個を仲間に隠れて食べるのが至福の時だった。ニュージーランド留学を希望していた高校進学時、経済的理由を考慮した父の勧めで、埼玉・正智深谷高へ入学。言葉や文化など何も知らない状態で来日し、大型FWとして2度の全国高校大会出場に貢献した。埼玉工大時代のオフには、深谷市の白菜農家でのアルバイトで月20万円を稼いだ。大半を実家へ仕送りし、両親に泣きながら感謝された。「もっと強くなってラグビーで家族を助けたい」。この頃から代表への思いが芽生えてきた。

大学時代、白菜農家でバイトするバル・アサエリ愛

転機は14年。パナソニック2年目で名将ロビー・ディーンズ監督から「プロップに転向すれば日本代表も狙える」と言われた。トンガ代表との迷いもあったが、トップ選手が各国のクラブチームに属し、W杯直前にならないと集まらない事情もあり、日本代表を目指すことを決意した。それまで突破力が強みのNO8だったが、15年11月に転向。体重は12キロ増加させ、「動けるプロップ」として2年で代表まで上り詰めた。「日本(世界ランキング11位)のレベルやラグビーへの愛情はトンガ(同14位)よりも間違いなく上。強い気持ちを持つ国で戦うことは当然。僕が『桜ジャージーを着る』という思いは日本人選手にも負けない」。代表への思いは、出身国に関係なく強く、深い。

4月には妻愛里さんと結婚して6年目を迎える。日本国籍を取得した時、名前の「アサエリ」に妻の名前と初めて覚えた漢字の「愛」を一文字加えた。8カ月後に迫るW杯日本大会は、決意と覚悟を持って臨む。「このチャンスを必ず勝ち取って、目標のベスト8入りする。両親には日本の歴史を変える瞬間を会場で見てもらいたい」。愛くるしい瞳を輝かせた29歳は、ラグビー愛と家族愛に満ちていた。【峯岸佑樹】

◆バル・アサエリ愛 1989年5月7日、トンガ生まれ。15歳で来日。正智深谷高-埼玉工大-パナソニック。17年11月のオーストラリア戦で代表デビュー。代表キャップ5。特技は散髪。趣味は温泉。好きな言葉はLOVE。家族は妻、2男、1女。187センチ、116キロ。血液型O。

パナソニックの練習で軽快な動きをするバル・アサエリ愛(中央)(撮影・峯岸佑樹)

ピッチマーク

畑岡奈紗ら黄金世代が成人式 SNSで1年の誓い

今シーズンへの意気込みを語る畑岡(2019年1月13日撮影)

年を取ると時間の流れが早く感じるものです。ついこの間、クリスマスが来たかと思えば、もうお正月気分も過ぎ去って。まあ、でも、この時期はいいものです。1年の誓いを立てたり「今年はやるぞ!」という気分にさせてくれます。

昨年は黄金世代が女子ゴルフ界を盛り上げてくれました。新垣比菜、大里桃子がツアー優勝。11月の大王製紙エリエールレディースでは、14年に史上最年少(15歳293日)となるアマチュアでのツアー優勝を達成していた勝みなみが、苦悩の時期を乗り越えてプロ初優勝を飾りました。世界で活躍する畑岡奈紗は、1月14日発表の女子世界ランクで日本人最高の7位をキープ。今年もまた、黄金世代が輝く1年になるのは間違いなさそうです。

そんな彼女たちが、成人式を迎えました。1月13日が20歳の誕生日だった畑岡は、故郷の茨城県笠間市で開かれた式典に出席。母博美さんが20数年前に着たという赤の振り袖で、いつものゴルフウエアとは違う姿を見せてくれました。初の賞金シード権を獲得した原英莉花は横浜市の式典に参加し、今季はQT6位でツアー参戦する三浦桃香、勝みなみらは、SNSに振り袖姿を披露しました。

昨年の下部ツアーで活躍した河本結は、地元愛媛の道後温泉などで記念撮影。彼女もまた、母みゆきさんが着た振り袖でした。レギュラーツアー本格参戦となる河本は「年間を通じて強い選手になりたい。人としても一流で、すてきな女性に成長していきたいです」と、賞金ランク5位以内を目標に掲げています。

昨年は賞金ランク1位がアン・ソンジュ、2位が申ジエと韓国勢が強さを見せました。

いつの日か、若く、強い、黄金世代による賞金女王争いも見てみたい-。今季の国内ツアー開幕となる3月7日のダイキンオーキッドレディース(琉球GC)が、待ち遠しい。【益子浩一】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

地元愛媛で成人式を迎え記念撮影する河本結(2019年1月13日家族提供)

We Love Sports

大差ライスボウル開催意義問う声 規定設ける考えも

関学大対富士通 第2Q、42ヤードを走りきった富士通RBニクソン(2019年1月3日撮影)

アメリカンフットボールの国内シーズンが終了した。春は日大の反則問題で大騒ぎも大詰めのボウルゲームは順当だった。富士通が初の3年連続4度目の日本一。最後の日本選手権ライスボウルは52-17の大勝に、敗れた関学大から開催意義を問う声が上がった。

米国人RBニクソンがサイズとパワーを生かしたランで試合を決めた。社会人として最多得点タイ、大会史上3番目の得点差。関学大は第一に安全面、さらに勝負という面白みがないというもの。形態を変える時期と提案している。

ライスボウルは48年に東西大学オールスター戦で始まった。84年から社会人と学生が対戦の日本選手権に変わった。当初は練習量豊富な学生が7勝1敗も、その後28年間で学生は5勝止まり。立命大が09年に勝った後は社会人10連勝となった。

社会人が徐々に実力、体力アップし、リーグや日本代表も価値観が高まり、近年は米国人起用で強化が背景にある。学生は米国人と対戦機会は少ないハンディも、各世代の日本代表は世界大会の目標もある。

富士通の藤田ヘッドコーチは15年の初対戦で9点差と苦戦を口にしていた。10年間で2TDの14点差以内は半分の5試合。富士通は今季10連勝だが、オービックとパナソニック以外の7試合は14点差以上だった。ニクソンは今季ずっと走りまくっていた。

92年から東京ドーム開催で今年は3万3242人が詰めかけた。正月のスポーツでは新日本プロレスの3万8162人に次ぐ。昨年は日大が27年ぶり出場に3万5002人など5年連続3万人超え。日本協会が主催する国内最大で唯一の試合である。

オールスター、全日本大学選手権、日本社会人選手権、日米大学対抗戦…と、他のゲームへ移行の声も上がる。それぞれの協会の財源だし、大学選手権自体に東西システムの違いの方が問題に思うし、日米対抗は米国の規定から実現は極めて難しいし。

興行優先ではとの指摘も、この日本協会の収益が日本代表の運営、強化、競技の普及、発展の資金なのも事実。オールスターでこの規模の動員は厳しい。

早大は関学大に敗れて初のライスボウル出場はならなかった。DL斉川主将は「しんどいだろうけど出たかった。どれだけ通じるか、楽しみたかった」。高岡監督も「とにかく1度は出たい」。ライスボウルに出場した大学は過去6校だけの栄誉でもある。

日大騒動もあってか、安全性を危ぶむ声は強い。そのうち普段の社会人と学生の交流試合もできなくなるのかとも思ってしまう。社会人の発展という面でも悩ましい問題となる可能性もある。

このビッグゲームをおいそれと他に変更するのは実にもったいない。そこで試合規定を設ける考えがある。1Qを15分から12分、外国人選手の各Qで人数と出場制限など。1Q15分は甲子園ボウルとライスボウルだけで、世界大会は1Q12分で統一されている。外国人制限はバスケットボールのBJリーグで実施されている。

ラグビーでは同じ形態からトーナメントになり、17年にはついに学生枠がなくなった。箱根駅伝、大学ラグビー、花園ラグビー、高校サッカーと並び、ライスボウルも正月の風物詩。BSと言えどもNHKテレビで全国中継される数少ない決戦。日本選手権としてのボウルゲームとして存続を願う。【河合香】

ラグビーW杯がやってくる

トンプソン・ルーク「日本のために僕は震え上がる」

「そのジャージーを着る意味を絶対に忘れないでほしい。日本全体の代表。兄弟たちのために戦う姿を誇りに思います」と日本代表へのエールを記したトンプソン・ルーク(撮影・松本航)

<外国出身選手の物語>

9月開幕のワールドカップ(W杯)日本大会へ向かう日本代表には、多くの海外出身選手がいる。19年最初の連載「ラグビーW杯がやってくる」は、他国出身選手の是非が議論されることもある中、日の丸を背負って戦う選手の思いに迫る。シリーズ初回は15年W杯の南アフリカ戦勝利に、フル出場で貢献したロックのトンプソン・ルーク(37=近鉄)。W杯3大会連続出場の功労者が歩みを振り返り、今の代表へエールを送った。【取材・構成=松本航】

  ◇   ◇   ◇  

4月で38歳になるトンプソンは、日本で過ごす15年目のシーズンを終えた。トップリーグ昇格はならなかったが、近鉄の一員として昨年12月の入れ替え戦もフル出場。海外出身選手で日本代表最多64キャップを持つ男は、コテコテの関西弁でその日々を思い返した。

トンプソン 15年W杯の南アフリカ戦は、めっちゃいい思い出。家族も招待していて、本当に素晴らしい経験やった。それとW杯のピッチに初めて立った07年のフィジー戦。「初キャップ」はいつも特別だから。

04年に三洋電機(現パナソニック)と契約し、ニュージーランド(NZ)生まれの23歳は初めて日本の地を踏んだ。カンタベリー州代表で試合に出ていたが、NZ代表「オールブラックス(ABs)」の名ロック、ジャックらが代表から戻ると2軍が濃厚な立場だった。

トンプソン カンタベリー協会と三洋につながりがあって、マネジャーに「三洋にはチャンスがある。1、2年やって、戻ってきたら」と言われたのがきっかけやった。日本のイメージは「人が多い」。あとは高1の2カ月間、たまたま日本語を勉強したけれど、めっちゃくちゃ難しかった。

初めて見た日本の景色は驚きの連続だったという。

トンプソン 成田空港を出ていきなり高速道路のレーンの多さにビックリ。あとは電灯とコンビニが多い。初めは生魚がダメで、刺し身のサーモンは焼いてもらっていた。今はすしも、ラーメンも、お好み焼きも好き。子どもがいつも『すし!』って言うから、回転ずしにめっちゃ行く。

当初は2年で戻り、ABsを目指すつもりだったが、06年に近鉄へ移籍した。

トンプソン 三洋をクビになって、そこに近鉄から話があった。今となってはいい判断。日本の人はめっちゃくちゃ優しくて三洋の頃から大好きやったね。

この選択は日本代表入りを加速させた。07年4月の香港戦で初キャップを獲得。現在のルールでは「36カ月以上の継続居住歴がある」など条件を満たせば、国籍に関係なく国・地域の代表になれる。W杯3大会連続出場を果たした男は、大躍進した15年W杯を終えて代表引退を表明。だが、故障者続出のアイルランド戦(17年6月)で“1試合限定復帰”を果たした。フル出場で体を張り続けた「救世主」は試合後に言った。

「自分の仕事はできたけれど、おじいちゃんだから疲れたよ。さよならだよ。(代表には)戻りません」

日本ではW杯が行われる度に、他国出身選手が名を連ねる是非が問われる。15年W杯期間中にはFB五郎丸(ヤマハ発動機)が「外国人選手にもスポットを。国籍は違うが日本を背負っている。これがラグビーだ」などとツイッターへ投稿。10年に日本国籍を取得したトンプソンも、桜のジャージーへ強い思いがある。

トンプソン 僕にとって日本代表と近鉄のジャージーはめっちゃ特別。近鉄は会社とファン。日本代表は日本中の思いを背負うことになる。それは兄弟みたいなもの。だから、代表のプレーに誇りを持つ。日本人のみなさんのためのプレーに、僕は震え上がる。毎回ベストを出さなきゃいけないし、体を張って戦わないといけない。

W杯まで残すは8カ月。

トンプソン ベスト8は簡単じゃないけれど、素晴らしいチャンスがある。期待値が高くて、外からの重圧もあるけれど、それをうまく使えば、めっちゃくちゃいいW杯になるね。

トンプソンは黒のペンを握り、色紙へ現代表へのエールを力強く書き込んだ。

トンプソン そのジャージーを着る意味を絶対に忘れないでほしい。日本全体の代表。兄弟たちのために戦う姿を誇りに思います。

覚悟を持った男たちに、出生地や国籍は関係ない。

◆トンプソン・ルーク 1981年4月16日、ニュージーランド・クライストチャーチ生まれ。13歳で競技を始め、セントビーズ高、リンカーン大などを経て04年来日。三洋電機に在籍し、06年から近鉄。練習場へママチャリで通う。家族は妻ネリッサさんと2女1男。6歳の長女が小学校に入学するため、今年から家族はニュージーランドで暮らす予定。196センチ、110キロ。

15年10月、W杯サモア戦で突進するトンプソン・ルーク(撮影・PIKO)
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心に響いた…勝みなみら新人研修メンタルトレに興味

プロ入り初優勝の勝はカップを掲げる(撮影・外山鉄司)

日本女子プロゴルフ協会(LPGA)の新人研修セミナーが先月中旬に都内で行われた。18年のプロテストに合格した新人と、その前年にプロになった選手たちが、社会人としてのマナーや化粧、競技への心構え、会場での振る舞いなどについてプロ講師の講義を受ける研修だ。

公開日に、研修を受ける選手たちの声を聞くことができた。興味深かったのは、昨年初優勝したり、優勝争いに何度も絡んだ実力のある若手たちが、声をそろえてメンタルトレーニングの講義の印象を語ったことだった。

黄金世代でもNO・1の実力者と言われる勝みなみは、昨季、何度も優勝争いに絡みながら終盤に失速。シーズンの終盤になって優勝したが、年間を通してかなり苦しいシーズンをすごしたと思う。その勝は、プロ1年目のシーズン前に、メンタルコーチの指導を受け、シーズン中も、何度か連絡を取り合っていたという。「先生によって教え方が違うと思っていたが、メンタルトレーニングの基本は一緒だった」と、自分がやってきたことに確信が持てたようだった。

黄金世代の中で、最初にプロ初勝利を挙げた新垣比菜は「メンタルの話はすごく響きました。自分が感じているストレスは、悪いことではない。ストレスも受け入れようという気持ちになりました」。優勝こそならなかったが、一年を通じて上位で活躍した小祝さくらも「今日のメンタルの勉強は、今までにやっていなかったこと。考え方が、少しだけ変わった」と目を輝かせていた。

取材時間に制限があり、多くの選手に話をきくことができなかったが、シーズンを通じて活躍する選手は、やはり意識が違うと感じた。ゴルフ場の取材では、記者の質問に、ピンまでの距離や、使用したクラブの番手、グリーンの状況など数字を正確に答えられる選手もいれば、あいまいな笑みでごまかす選手もいる。祖母との心温まるエピソードを聞かされた後で、祖母の名前を尋ねると「えっ? いつもおばあちゃんと呼んでいるので名前は…」と答えた選手もいた。

新しいシーズンがもうすぐ始まる。今年は、どんな新しい顔に出会えるか、記者も楽しみにしている。【桝田朗】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

We Love Sports

青学大・岩見が流した涙…悔しさは箱根で取り返す

優勝を逃し、青学大4区岩見秀哉は泣きながらあいさつする(2019年1月3日撮影)

華やかな勝者の裏側には、失敗と挫折にまみれた敗者がいる。1月3日、そびえ立つビルの間を寒風が吹き荒れる大手町。箱根駅伝で5連覇を逃し、2位だった青学大がファン、関係者の前で結果を報告していた。出場選手が弁を述べる場で、ひときわ責任を背負い込んでいた2年生がいた。

4区の岩見秀哉。大勢の人の前に整列し、1区橋詰大慧、2区梶谷瑠哉、3区森田歩希主将(すべて4年)の言葉を聞いている時は気丈に立っていた。次は自分の番。礼をして、1歩前に出ると、言葉が出てこない。

約40秒。顔を上げられない。目頭を何度もぬぐう。「自分が…チームの目標である5連覇の勢いを止めてしまって…復路の選手に負担をかける形になってしまいました。1年間、4年生がチームを支えてくださり、力を付けることができたのに…最後、本当に情けない走りをしてしまいました」。震える声を絞り出した。

   ◇   ◇

岩見は8位から区間新記録の快走でトップに立った森田からたすきを受け取った。この時点で、原監督も5連覇をほぼ確信したという。しかし、岩見は東洋大の相沢晃(3年)に先頭を譲り、2・5キロ付近から突き放された。その後もペースは上がらず、1時間4分32秒は区間15位。東洋大と3分30秒、東海大と42秒差の3位に転落。手にした流れを失う分岐点となった。

何が起こったのか。まず悔やむのは平塚中継所。当時は日が差し込み、温かかった。手袋は置いていった。だがコース上は日陰が多かった。「日光がなくなって。気持ちは前にいっているつもりでしたが、体が全然ついてこなくて…」。ペースは速くなかったが、低体温症に陥った。15キロ以降は「力が全然出なかった。何とか、たすきを渡せたという感じでした」。小田原中継所では意識は薄れ、寒さが体を襲っていた。

視聴率は30%を超える箱根駅伝。それを勝って当然と見られるチームの一員。凡人には経験すらできない重圧が、存在するのは想像に難くない。「4日くらい前から日常生活でも、かなり緊張していた」という。しかも初の3大駅伝。「力を出し切るだけ」と何度も自分に言い聞かせたが「簡単にはいかなかった」とはやる気持ちは抑えられなかった。睡眠は「いつも通り」も、消化が悪いこともあり、食事量は少し落とした。調子は「少しずつよくなってきましたが、10日前はすごく悪くて。走りだしはよくても、途中からきつくなるイメージがずっとあった」。なにも魔物がすむのは甲子園やオリンピックだけではない。

兵庫・須磨学園高の出身。4学年上には青学大で2年連続3区区間賞で箱根制覇に貢献した秋山雄飛(24=中国電力)がいた。その偉大な先輩の姿、笑顔があふれるチームカラーに憧れた。青学大から推薦入学の話が届いた時は即決した。ただ思い焦がれる強い気持ちは、計り知れない気負いにも変わるのだ。

   ◇   ◇

特に岩見はメンバー入りが当落線上の選手だった。あの報告会。言葉を詰まらせた40秒の間、何が頭をよぎったのか。「自分はボーダーラインだったのに走らせてもらった。ギリギリで走れなかった選手へふがいないなと」。成長を後押ししてくれた4年生とともにエントリーしながら、10人の出場メンバーから落ちた6人の顔が次々と浮かんだ。箱根駅伝4連覇の栄光は同時に日本一厳しいチーム内競争を意味する。青学大なら控えでも、他校ならエース格の力を持つ選手は多い。

自らへの悔恨、連覇が4で止まった厳しい現実。それは簡単に受け入れられないだろう。ただ嘆くだけでない。きっぱりと胸中をこう口にした。「来年、再来年と自分にはある。優勝して今年の4年生、支えてくれたチームメートに結果で恩返ししたい」。何とも、その意気に胸打たれた。

   ◇   ◇

遊び尽くすこともできる大学生活を地道な鍛錬に費やし、その1年の集大成が箱根駅伝。そこには多くの人の生きざまが描かれる。日の丸を背負うスターもいれば、箱根を最後に引退する選手、もちろん舞台に立てず、サポートに回る者もいる。

見る者の側からすれば、圧倒的強さを誇るスターも憧れるが、挫折、苦難に立ち向かい、乗り越えた選手の成長物語も面白い。原晋監督(51)も「箱根の悔しさは箱根でしか返せない。練習あるのみ。3年生になったらチームを引っ張らないと」と話す。この日の涙が糧となり、花開く日がやってくるに違いない。そう、まだ挽回のチャンスは2度もある。その姿を見続けたい。【上田悠太】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆上田悠太(うえだ・ゆうた)1989年(平元)7月17日、千葉・市川市生まれ。明大を卒業後、14年入社。芸能、サッカー担当を経て、16年秋から陸上など五輪種目を担当。

小田原中継所に3位で到着した青学大4区岩見秀哉(2019年1月2日撮影)

We Love Sports

新時代に茗渓ラグビーの力を!大越が先輩の無念胸に

1日の長崎北陽台戦終了後、泣きながら引き上げる、茗渓学園SH大越勇気(右)(撮影・松熊洋介)

平成最後の優勝はならなかった。昭和最後の68回大会に大工大高(現常翔学園)と両校優勝となった茗渓学園(茨城)は3回戦で涙をのんだ。

長崎北陽台との一戦は交互にトライを取って逆転、という展開になった。6点リードされ、残り約10分。茗渓学園がトライを決める番だったが、最後まで逆転することはできなかった。高橋健監督(54)は「残り5分で勝つという気持ちが負けていた。相手の方が堂々としていて、自分たちはハンドリングなどミスをしてしまった」と肩を落とした。

スタンドにあいさつを終えた瞬間崩れ落ちた選手がいた。SHの大越勇気(2年)だ。1人グラウンドから立つことができず、仲間に抱きかかえられた。大越は「僅差になることは分かっていたが、後半自分でもミスをして、最後まで走りきれなかった」と悔やんだ。

人目もはばからず号泣したのには理由がある。1年生から花園に出場。2年生になってレギュラーをつかみ、U17日本代表にも選ばれ、チームの中心になった。「春から試合にスタメンで出させてもらい、自分がここまで成長できたのは、素晴らしい先輩たちがいたから。本当にこのチームがやりやすくて、楽しかった。3年生ともっと一緒にラグビーをやりたかった」と胸の内を明かした。

新チームでは主将となる。第92回大会(ベスト4)以来、8強から遠ざかっている。大越は「1年生の時は2回戦で大敗(日本航空石川に7-66)して、今回は接戦という結果だった。確実に茗渓のラグビーは成長している。自分の集大成のときに茗渓ラグビーの力を証明したい」と意気込みを力強く語った。

新時代で迎える第99回大会。平成最後で優勝できなかったが、大越は茗渓学園を率いて花園の主役となり、新時代最初の優勝をつかみ取る。【松熊洋介】

◆松熊洋介(まつくまようすけ) 1977年(昭52)4月30日、福岡県生まれ。東京日刊スポーツに入社後、編集局整理部、販売局を経て、昨年12月より東京五輪・パラリンピックスポーツ部に異動。現在ラグビー、バドミントン、ソフトボール、アイスホッケーを担当。

1日の長崎北陽台戦終了後、グラウンドにうずくまる、茗渓学園SH大越勇気(撮影・松熊洋介)

ピッチマーク

渡辺彩香モデルチェンジで地元開催の五輪出場へ照準

渡辺彩香(2018年11月15日撮影)

2019年になった。20年東京オリンピック出場を狙うアスリートには本当に大事な1年だ。16年リオデジャネイロ大会から復活したゴルフ。地元開催のオリンピックの舞台に立つことを目標に掲げる渡辺彩香(25=大東建託)は、19年シーズンのスタートダッシュに照準を合わせていた。

昨年12月、都内で行われたゴルフイベント。渡辺は「今年(18年)は、かなり好き放題やりたいことをやりました。スイング改造をしたり。全部オリンピックのために周りをみずにやってきた」と振り返った。世界ランク191位だった10月、19年米ツアー出場権を懸けて2次予選会(米フロリダ州)にも挑戦して敗退。2年後のオリンピック出場権も世界ランク上位2人が条件となる。少しでも同ランクを上げるための19年米ツアー挑戦プランだったが、かなわなかった。

この米予選会出場のために約1カ月間、日本ツアーを離れたこともあり、賞金ランキングは55位。6年ぶりにシード権を喪失した。渡辺は「それでもスポンサーの方々にも応援してくれて、今思うと本当に心強かったです。19年は悪い時に支えてくれる人たちを笑顔にできる1年にしたい。優勝だけでなく、いろいろなことで笑顔にできたらと思いますね」と感謝した。

19年の日本ツアーは賞金ランク51~55位までに与えられる出場権(6月までの1回目のリランキング)を持つ。しかしシーズンを通じて出場を続けるには、この前半戦で好成績を出さなければ出場機会さえも失う。自称スロースターターでもあるため「しっかり前半からガンガンと上位にいるつもりで。トレーニングも今までよりも早め早めに始めるつもりなので」と切り替えている。

リオオリンピック前、渡辺は世界ランク日本勢3番手で迎えた全米女子オープンの最終日に失速して38位フィニッシュ。日本勢の上位2人に残れず、惜しくもオリンピック出場を逃した。最新の世界ランクで、渡辺は205位。ただ日本ツアーで好成績を収めれば自然と世界ランクは上昇し、メジャー大会の出場権も得られる。活躍すれば、さらなるランクアップが狙える。

「前半からしっかり結果を出していきたい」。あとは、はい上がるだけ-という覚悟は、表情からもうかがえた。3月の開幕戦にはスタートダッシュ型にモデルチェンジした渡辺の姿が見られるはずだろう。

【藤中栄二】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

We Love Sports

井上拓真2年分の涙糧に王座、兄尚弥と比較向き合う

井上拓真(中央)は判定勝ちし父真吾氏(中央左)から祝福を受ける(撮影・小沢裕)

ボクシングのWBC世界バンタム級暫定王座決定戦が12月30日に都内で行われ、同級5位井上拓真(23=大橋)が悲願の世界王座奪取に成功した。3階級制覇の兄尚弥(25=大橋)の背中を追いかけ、ついに頂点に立った。

16年11月10日。幻となった“世界初挑戦”を1カ月半後に控え、拓真の目から涙があふれた。9日に行われた世界戦発表会見後のスパーリングで、右拳を負傷。翌日、千葉県内の病院で診察を受けると、手の甲と手首をつなぐ関節の脱臼が判明した。「将来を考え、手術した方がいい」-。医師の言葉は、拳の痛みを忘れるほど、心に突き刺さった。世界戦は中止。待ちに待ったチャンスが、こぼれ落ちた。

病院の駐車場。運転席に乗り込もうとした母の美穂さんは、後部座席に座る拓真の姿を見て、1人車から降りた。拓真が体を震わせて、泣いていた。「あそこまでの涙は初めて見た。悔しくてたまらなかったのだと思う。かけてあげられる言葉も思いつかなかったし、ただ1人にしてあげようと思った」。20分後、母が車に戻ると、拓真の目に、もう涙はなかった。悔しさを乗り越える-。偉大な兄と比較され、幼い頃から何度も悔しい思いは経験してきた。誰も感じたことのない重圧ともずっと戦ってきた。そうやって、強くなってきた。

初めてグローブに拳を通したのは、4歳。アマ時代、高校2冠を果たすも、比べられる対象は7冠の兄だった。当時について、拓真は「(尚弥は)すごいなとは思っていたが、どこか認めていない部分もあった。アドバイスを無視したり、感情むき出しの、けんかのようなスパーになることもあった。完全にすごいと思うと、負けを認めてしまうような気がした」と話す。

だが、その“差”はプロに入っても変わらなかった。ともに指導を受ける父真吾トレーナーの厳しい声は、スパーリング後のジム、帰りの車内、家に帰っても拓真に向いた。良いスパーリングをした兄は、怒られない。もやもやとした気持ちが晴れるきっかけは、目の前の尚弥のすごさを認めることだった。

「以前は、『お兄ちゃんすごいね』って言われても、『俺に言うなよ…』と思っていたが、プロで試合を重ね、ボクサーとして考えれば考えるほど、ナオの対応力はすごいなと感じた。どんな展開になっても、その場で戦い方を変えられる。スタイルも背格好も似ているし、最高の手本がこんなに近くにいると考えるようになって、自分の気持ちも変わっていった」。

行き着いたのは、兄と比較される状況と向き合うこと。「追いつきたいし、ナオ以上に結果も出したい。だから、スパーリングを同じ相手と違う日にやるとしても、ナオ以上の内容で終わりたい。意識することから逃げないようにすることで、自分が強くなれる」。

手術後も、厳しいマッチメークを1つずつ乗り越え、着実に力をつけてきた。あの涙から2年。確かな成長をリングの上で見せつけ、ついに、求め続けた頂点にたどり着いた。会場で勝利を見守った美穂さんは「入場してきた時に、2年前のあの日のことを思い出して、涙が止まらなかった。やっと、この日がきた」。会見を終えた真吾さんは、緊張から解き放たれたような優しい表情で言った。「うれしいし、今日は自分もおいしいお酒が飲める。ハイボールから芋焼酎を家でチビチビ、試合を反省しながら飲む。それが最高に幸せな時間です」。

悔しさを乗り越え、ベルトをつかんだが、ここで満足するつもりはない。「これからも、課題をクリアし、1歩ずつ進んでいく」。偉大な兄と比較されることから逃げず、悔しさと向き合うことで、道は開けた。23歳。井上拓真の本当の戦いは、ここからだ。【14~16年、ボクシング担当=奥山将志】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

サラパットに勝利した井上拓(中央)は兄尚弥(中央左)、父真吾トレーナー(同右)と記念撮影(撮影・鈴木みどり)

米PGAツアーティーチング

基地内で見た日本とはちょっと違うジュニアレッスン

日本には会員制コース以外にもプレーができないゴルフ場がある。米軍基地の中にあるミリタリーコースだ。その1つが東京都多摩市にある多摩ヒルズゴルフコースである。アメリカで知り合った米国人コーチがそこでジュニアを教えているというので話を聞きに行った。

●パスポート提示してコースの中へ

ジェームス・ショー氏

以前アメリカでバイオメカニクス(生体力学)関連のセミナーを受けた際に知り合った、ジェームス・ショーというコーチから久しぶりに連絡がきた。

「多摩ヒルズGCのディレクターになったから遊びに来ないか」

米軍関係者が利用するゴルフ場で、日本の地図には名前が載っていない。施設の入り口には検問がありパスポートの提示が求められる。看板にも「ここからはアメリカの土地」という注意書きが書かれていた。米軍関係者や米軍関係者の紹介がなければ入ることのできない場所だ。

施設の入り口

多摩丘陵に作られたコースは適度にアップダウンがある。傾斜にドッグレッグなどが随所に絡んで、決して簡単なコースではないという印象だ。レギュラーティーから200ヤード弱のパー3もあった。

ショーはここで米軍関係者やジュニアを中心にレッスンを行っている。地元の小中学生が受けられるようになっており、訪問した日にもアメリカ人の子どもより多くの日本人がいた。

●充実した練習環境

練習場には室内から打てるレッスンレンジがありどことなくアメリカンな雰囲気が漂っていた。ほかにも室内の練習場もありレッスン環境としてはかなり充実している印象。

アメリカではポピュラーになってきていて、近年日本のPGAなどでも行っているジュニアリーグというジュニア育成の競技を推進しているそうだ。印象的だったのは練習場の看板の数。日本では50ヤードくらいのピッチで数個が置かれているのがスタンダードだが、多摩ヒルズの練習場はかなり細かくヤーデージの看板が設置されていた。これだけでも距離感を身につけるのにはもってこいの環境だといえる。

細かくヤーデージの看板が設置されている

練習レンジのほかにもアプローチエリアもある。ここに個人の特性に合ったレッスンができるショーのようなコーチがいれば、ジュニアにとってかなりハイレベルなレッスンができるはずだ。

ショーは2016年にPGAティーチャーオブザイヤーを受賞したマイク・アダムスのティーチングに大きな影響を受けた。体の成長が早いジュニアはその時々に最適なスイングを作っていくことが重要だが、バイオメカニクスを基にした「プレーヤーに最適なスイング」の作り方を学んだショーはジュニアゴルファーを適切に導くことができるだろう。

ハードとソフトの両面が整った多摩ヒルズの練習環境。近いうちにミリタリーコース育ちの逆輸入選手がジュニアで活躍する日が訪れるかもしれない。

練習するジュニア

◆吉田洋一郎(よしだ・ひろいちろう)北海道苫小牧市出身。シングルプレーヤー養成に特化したゴルフスイングコンサルタント。メジャータイトル21勝に貢献した世界NO・1コーチ、デビッド・レッドベター氏を日本へ2度招請し、レッスンメソッドを直接学ぶ。欧米のゴルフ先進国にて米PGAツアー選手を指導する80人以上のゴルフインストラクターから心技体における最新理論を直接学び研究活動を行っている。書籍「ロジカル・パッティング」(実業之日本社)では欧米パッティングコーチの最新メソッドを紹介している。オフィシャルブログ http://hiroichiro.com/blog/

(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ゴルフスイングコンサルタント吉田洋一郎の日本人は知らない米PGAツアーティーチングの世界」)

ピッチマーク

明確な石川遼の改革「これが本当のジュニア育成」

18番を終え、同組で回った篠崎勇真(右、埼玉栄高3年)と握手を交わす石川遼=2018年12月16日

男子プロゴルフの石川遼が頭に描く未来予想図が、そのままゴルフ界の未来になる。

12月に新たなにゴルフ担当になり、真っ先に思ったことだ。まだ入り口に立ったばかりの記者に何が分かるか、と言われるかもしれないが、それほど、今年選手会会長に就任した石川の改革は明確だ。

今月16日に、埼玉・森林公園GCで行われたフューチャーゴルフツアーin埼玉を取材した。15日から2日間日程で合計スコアを競う。10人のプロが出場し、16日は埼玉県内の中高生20人とともにラウンドした。

そこでは、ゴルフでは見られない光景が繰り広げられていた。ラウンド中、プロが高校生にアドバイスを何度も送るシーンがあった。これはゴルフのルール上では違反行為。あり得ないことではあるが、この大会ではそれを認め、いろんなシーンで目にした。

しびれるプロのプレーを間近で見る。さらに、リズムからルーティン、取り組む姿勢…、高校生たちはその一挙手一投足を肌で感じ、目の前にある教科書を余すことなく吸収していく。プロは積極的に話しかけることでアドバイスを受けやすい空間を作る。さながらコース上で行う「個別指導」だ。姉妹で出場した岩井千怜(埼玉栄1年)は「プロはこんなにすごい球を打つんだと思った。パワーもレベルが違う。すべてにおいて圧倒されました。パターの練習の仕方を教わったのでさっそくやっていきたいと思います」と目を輝かせた。

石川は言う。「プロとジュニアが一緒にプレーして真剣な空気もありながら、プロの背中をみる。これが本当のジュニア育成」。プロのスイングの音、打球音、球が伸びていく音、プロにしか出せない「音」がある。よくプロ野球巨人の長嶋茂雄終身名誉会長が指導でバットスイングを表現する時、「ズバッと」などの言葉を使うが、それに近いもの。言葉で表現するのは難しいこのプロの音が、子どもたちの耳に、心に浸透し、そのまま夢になっていくんだと思う。

石川の原風景にもこの音が刻まれている。ゴルフ少年だった時。レジェンド、青木功、尾崎将司、中嶋常幸らのプレーを間近で見て、聞いた音は今でも耳に残り、指針になっている。「青木さん、ジャンボさん、中島さんのボールを今でも覚えている。音とか弾道とか、そいうことをジュニア時代は教わった」と振り返る。

同ツアーは、大相撲の地方巡業をモデルに、ジュニアの育成、ファンの拡大、地域貢献につなげる目的で、石川が発案し、今年から始まった。予定されていた7月の広島、岡山大会は、西日本の豪雨災害の影響で延期となったが、8月の新潟大会で初めて開催された。

この日、キャディーは高校生の親たちが務めた。ここにも石川の狙いがある。「普段、自分のお子さんがどれだけ難しいことをやっているのかと。ゴルフでこんなに頑張っているんだと一緒に感じてもらえたらいいなと思う」と話す。

思いは他の選手にも浸透している。この大会で優勝した大槻智春は、「ジュニアの子たちに持っている技術や考え方を伝えられたらと思ってラウンドした。今後も石川選手をサポートできれば、男子ツアーを良くしようという面もありますし、手伝わせてもらえればいい」と話した。

改革の1年目が終わった。方向性が見え、来年は「いろんなパターンをやってみたい。僕ら側から何パターンか提案して、開催してくださる方に選んでもらいたいです。柔軟に対応していきたい」とさらなる発展を目指していく。ゴルフ離れが叫ばれて久しいが、石川が振る改革の旗は確実に広がりを見せる。見つめる未来は、きっと明るい。【松末守司】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

◆松末守司(まつすえ・しゅうじ)1973年(昭48)7月31日、東京生まれ。06年10月に北海道本社に入社後、夏は競馬、冬はスポーツ全般を担当。冬季五輪は、10年バンクーバー大会、14年ソチ大会、今年3月の平昌大会と3度取材。五輪担当を経て12月からゴルフ担当。

ラグビーW杯がやってくる

W杯イヤー幕開けへ、今泉清氏がファン獲得策を提言

15年9月、W杯イングランド大会スコットランド戦で突進する立川(左)。奥はリーチ・マイケル

<今泉清氏19年への提言>

もうすぐ2019年、ワールドカップ(W杯)イヤーが幕を開ける。日本代表が、日本ラグビー界が、9カ月後に迫った本番にどう向かうのか。元W杯日本代表で日刊スポーツ評論家の今泉清氏(51)がベスト8入りを目指す日本代表を語り、大会への準備で持論を展開した。年内最後の「ラグビーW杯がやってくる」は、19年への提言で締めくくる。

いよいよW杯の年、楽しみですね。特に、日本代表には期待しています。ニュージーランド、イングランド相手にいい試合をした。勝つことはできなかったけれど、戦えないということはなかった。イングランド戦など前半リードしましたから。W杯への階段をしっかり上がっていますね。

もちろん、課題はあります。スクラムは良くなったけれど、ラインアウトは身長2メートルの相手に苦しんでいる。キックしたボールの再獲得という面も、まだできていない。さらに、攻撃で終わることも重要。サッカーでも「シュートで終われ」と言いますが、積極的にDGを狙うなど、考えないといけない。ミスからターンオーバーされることは精神的なダメージも大きく、失点のリスクもありますから。

バックスも「外、外」といきすぎですね。あれでは相手も守りやすい。CTBのトゥポウとラファエレは技巧派だけれど、相手の脅威にはなれていない。もっと縦への動きもほしい。縦に出られる選手がいれば、外への攻撃も生きてきますから。ケガから復帰した立川(理道=クボタ)ならパンチ力もあるし、今の代表に必要だと思いますね。

日本代表は大会を盛り上げてくれると思います。でも、ラグビー界の努力も大切。W杯があるということが、いまひとつ浸透していないように感じる。みんな20年東京五輪には興味があっても、W杯ラグビーは知らない。選手もそう感じているんじゃないですか。

もちろん、やっていないわけじゃない。ゴールデンタイムのテレビで宣伝し、露出を増やす。一定の効果は期待できると思います。ただ、それでは一過性で終わる。W杯でのラグビー人気が持続可能なものになるのか。限られた資金で、できることはたくさんあります。まずは協会のリーダーシップが大切なんです。

今、代表の試合の日に高校生は自分たちの試合をしています。ニュージーランドではオールブラックスの試合日程を最初にカレンダーに書き込み、それを避けて試合や練習を組む。キックオフが午後2時なら、1時には試合を終えて相手チームと一緒に代表戦を見る。そんな環境が必要です。

自分たちの代表の試合だから、みんなで応援しようということ。ラグビーをやっている人が関心がなければ、他の人が見にくるわけがない。まずは協会主導で代表戦の日は高校生や大学生の試合を組まない。簡単にできます。やらないのは協会の努力不足ですね。

ラグビーをやっている人が、友達を誘う。解説しながら一緒に見れば、よくある「ルールが分からないから」はなくなる。基本お金もかからない。すぐできるファン獲得策ですよ。W杯に向けて、そういう努力から始めるべき。せっかくW杯があるんですから。

◆今泉清(いまいずみ・きよし)1967年(昭42)9月13日、大分市生まれ。6歳で競技を始め、大分舞鶴高ではフランカー、早大でBKに転向した。華麗なステップと正確なプレースキックで、大学選手権2回、日本選手権1回優勝。ニュージーランド留学後、サントリー入り。01年の引退後は指導者や解説者など幅広く活躍している。日本代表キャップ8。