フィギュアスケート女子で2016年世界ジュニア選手権優勝の本田真凜(22=JAL)が11日、シニア転向後の葛藤と財産を振り返った。都内での引退会見後には日刊スポーツの単独取材に応じ、シニア1季目だった2017~18年の平昌五輪(ピョンチャン・オリンピック)シーズン以降の胸中を語った。
今後はプロスケーターとしてアイスショーなどに出演。「大好きなまま」というスケートに携わる道を進む。
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全身を白のスーツでまとめ、会見場を去る本田が両手を胸に当てた。最後まで涙はなかった。
「これまでの人生は、どんな時を振り返っても、全ての思い出にスケートがあります」
2023年12月、9年連続でエントリーした国内最高峰の全日本選手権。現役最後の演技を終えると、浅田真央さんからメッセージが届いた。
「小さい時から逃げず、最後まで頑張ってこられたのは、偉いことなんだよ」
2歳でスケートを始め、自らの手で得た財産だった。憧れる浅田さんの言葉をかみしめ「いろいろなことを乗り越えられたからこそ『どんな困難があったとしても、今の私は乗り越えていけるんじゃないかな』と思います」と胸を張った。
「もし今、小さい頃の自分にアドバイスをするとしたら…。『もう少し“余白”を作ってもいいんじゃない?』と言うと思います」
競技者人生の分岐点は今から6季前、2018年平昌五輪へ進むシーズンだった。
幼少期から3歳上の兄太一さんが目標。だが、2016年に日本勢7人目の世界ジュニア女王となると、注目度が一変した。
翌17年の同選手権も、のちに五輪金メダルをつかむザギトワ(ロシア)に次ぐ2位。シニア1季目から五輪出場の期待を背負った。
「あの年は悲しい記憶です。注目される自分に戸惑い、心が壊れていました」
初のグランプリ(GP)シリーズは、同年10月のスケートカナダだった。ショートプログラム(SP)は2本のジャンプ失敗で12人中10位。行き場を失った。
「『悔しい』と1人で思うことも、泣く暇もなかった。傷つく言葉を、自分から探しにいっていました」
高校1年生。夏に16歳となっていた。急激に背が伸びる時期も重なり、ジャンプはジュニアのころの感覚と異なった。トップ選手となる前から「スケートは16歳まで」と決めていた。人生設計にすがって「あと2カ月、頑張ろう」と言い聞かせ、五輪代表選考会だった12月の全日本選手権を7位で終えた。心は折れた。
「『休む』というよりも『スケートをやめる』という感じで休み始めました」
氷から離れること4日。無性に戻りたくなった。スケートがない生活は考えられなかった。拠点を米国に移すと、そこには誰も自分を知らない世界があった。
「今なら『周りを気にしなくていいよ』と言える。でも、当時は周りのことばかりを気にしていました」
兄の太一さんは大学4年だった2020年、最後の全日本選手権を終えた。フリーは24人中22位。それでも「誰よりもいい演技をした!」と言っているような表情に見えた。その姿に導かれ、本田も昨年12月の全日本選手権をゴールに定めた。
走り抜けた先に財産は残った。
「世界ジュニアで優勝した時から、たくさん注目していただけました。『良かったな』『幸せだな』と思うこともたくさんあったけれど、小さい頃の私は『つらいな』と思うこともあった。順風満帆には見えなかったかもしれませんが、当時の私より今の方が、スケートが好きで、幸せです」
愛するスケートと第2章に手をかけた。【松本航】
◆本田真凜(ほんだ・まりん)2001年(平13)8月21日、京都市生まれ。2012年全日本ノービス選手権Bを当時の歴代最高点で制す。シニアは2017年USインターナショナル優勝。関大高から青森山田高へ編入し、明大ではCM出演などもこなした。全日本選手権は9年連続エントリー。昨年12月は28位。家族は両親と姉、兄太一さんと妹2人。姉を除く4人がスケート経験者で、妹で女優の望結、紗来は芸能活動も行っている。161センチ。血液型A。
- 引退発表記者会見を終えカメラに手を振る本田(撮影・滝沢徹郎)
- 本田真凜(右)。左は荒川静香さん(19年10月撮影)
- 引退会見に臨む本田(撮影・滝沢徹郎)
- 引退発表記者会見で記念撮影する本田(撮影・滝沢徹郎)
- 笑顔で会見する本田(撮影・滝沢徹郎)
- 本田真凜(2022年11月撮影)
- 女子SPで演技をする本田(2016年11月撮影)
- 引退発表記者会見を終えカメラに手を振る本田(撮影・滝沢徹郎)
- ウォームアップをする本田真凜(右)と本田望結(2021年10月撮影)