<取材記者が振り返るドバイワールドC(2)>

 今でもすぐに思い出すコメントがある。「夢に見て、夢でもかなわないと思っていた世界への挑戦」。当時大井所属だった内田博幸騎手がしみじみと話した言葉だ。05年、地方所属馬として初めてドバイへ遠征したアジュディミツオーを取材。同馬は藤川ファームで生まれ、藤川貴美雄場長の長男友則さんは装蹄師、二男尚貴さんは同ファームで育成に携わり、三男伸也さんはミツオーの厩務員。一家で育てた馬が世界一を目指した。

 当時の地方競馬は、売り上げが低迷。故川島正行師は「地方の馬でもこれだけやれるってことを知らせたい。それで船橋、地方が活性化すれば」と危機感を募らせていた。少しでも上向いて欲しいとの思いで挑んだ。当初オーナーサイドから「海外は負担が大きい」と反対されていた。だが04年東京大賞典を勝利後にドバイ遠征は現実味を帯びた。無謀な挑戦ではなく、本気で勝ちに行った。米国勢が例年ほど強力じゃないこともリサーチ済み。「チャンスってのはあるようで、ない。来年なら勝てるって保証はない」。

 結果は6着。レース後に「よく頑張った」と口にしたトレーナーの表情には勝負師としての悔しさと、やり切った満足感が同居しているように見えた。現在の地方競馬は、ネット投票等の売り上げが伸びてV字回復。この遠征と、売り上げ回復は別ものだ。それでも、何かしようという熱意が約10年後に実ったとも言える。

 ワールドCに限れば、01年にトゥザヴィクトリーが2着と好走も、02年から10年までの9回で4着が最高(06年カネヒキリ、07年ヴァーミリアン)。一方で、フェブラリーSからのドバイ遠征は定着した。成績だけ見れば日本馬低迷期。だが、地方馬アジュディミツオーの参戦こそが、底上げ期の象徴とも言えるのではないか。【メディア戦略本部・高橋悟史】


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 今回、原稿を書くにあたり12年前を思い返した。挑戦した川島師はこの世を去り、内田騎手はJRAへ移籍。当時は、無線LANはもちろん、LANケーブルもなく電話線をつないでいた。ホテルの電話料金がとんでもなく高額だったことを思い出した。状況は目まぐるしく変わっている。

 ちなみに、このドバイ出張中に、長男が生まれ父になった。予定日よりも約2週間遅れ、出張にかぶった。その長男もまもなく12歳になり、4月からは中学生。アジュディミツオーが勝ったら名前は「ミツオ」にしようと思ったが、妻の猛反対にあったことも思い出した。

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