ジェニュインVツヨシ2着SS時代の幕開け/皐月賞

<1995年:皐月賞>

 平成の競馬史を振り返る新連載「Legacy ~語り継ぐ平成の競馬~」。第4回は平成7年(1995年)の皐月賞を制したジェニュイン。サンデーサイレンス初年度産駒の記念すべき勝利を元調教師、生産者に聞いた。

 「ジェニュインの勝った皐月賞はサンデーサイレンス時代が始まる皐月賞だったよ」。3冠馬ミスターシービーを育て、ダービー2勝の名トレーナー、松山康久元調教師(74)が当時の本心を明かした。「衝撃だった。俺のそれまでの馬の見方や調教法、繁殖、生産の考え方・・・、すべてを変えてしまったんだからな」。

 平成7年の皐月賞。1頭の種牡馬が日本競馬を変える出発点になった。社台スタリオンステーションが導入した米2冠馬サンデーサイレンス(SS)、その産駒がワンツー。「ものすごい遺伝力だった。外形遺伝だけでなく、感性とか闘争心とか内臓機能とかの内生遺伝もすごかったのだと思う」。種牡馬SSはチーター(ネコ科)のような身のこなしをしていたという。「こんな馬が米国のダートで頂点に立つのかというほどに柔軟性があった。これはと思った」。

 社台ファームで初年度産駒の1頭を預かることが決まった。父と似た姿にほれ、自身が米国修業時に携わった思い出の馬の名前から「ジェニュイン」と名付けた。「たくさんの馬を管理したけど、サラブレッドってかっこいいなと一番思わせてくれたのがジェニュイン。皮膚が柔らかくて、首の差しに特徴があった」。

 SS産駒は走る。予感が確信に変わったのはジェニュインがデビューする約2カ月前。94年8月、新潟競馬場の新馬戦で目撃した、ジェニュインと同じ青鹿毛の馬の姿に衝撃を受けた。「渡辺栄さんのところで、すごい馬だったなあ。あの馬を見て、間違いない、うちのも走ると確信した。今でもすぐに馬体を思い出せる。黒光りして、彫刻のようだった」。フジキセキ-。無敗で朝日杯FSを制した2歳王者は弥生賞を快勝後、屈腱炎で引退。“幻のクラシックホース”と称される馬だった。

 ジェニュインが首差で制した皐月賞は会心の勝利だった。「俺もダービーを2度勝ったし、いい馬にめぐりあう運があった。ジェニュインも運があった。シービーのときのように弥生賞を使いたかったが、脚もとの関係で使えなくて、皐月賞へ出るには若葉Sで権利を取らなくてはいけなかった。5馬身負けたけど(繰り上がり1着)、不良馬場で嫌気を出して、馬が全然走らなかった。だから中3週でも思い切り調整できた。激しい気性で厩務員も助手も懸命に仕事をしてくれた。岡部(騎手)も付きっきりで、彼の情熱も沸点に達していたよ。皐月賞の直前、これはいいと思っていた。枠も展開もハッキリ言ってパーフェクトだったな。馬が引き揚げてきたとき、タヤスツヨシの小島貞博が言ったのをすごく覚えているよ。先生、次は負けへんで、ってな。ダービーは完全に目標にされて負けた。けどな、あの2着は本当に立派な2着だよ」。常識を変えた馬、SS初年度産駒の衝撃は今もなお色あせない。【取材=木南友輔、久野朗】

皐月賞を首差で制したジェニュイン
皐月賞を首差で制したジェニュイン