かわいそうじゃん。治してあげないと/山田勝久氏
<平成の故人>多くの野球人に頼られた名医がいる。2013年(平25)の2月、81歳で死去した横浜南共済病院の山田勝久院長。 ◇ ◇ ◇ 横浜中華街の奥にたたずむ「清風楼」。池波正太郎が愛した大粒のシューマイと特盛りチャーハンは、健啖(けんたん)家の山田先生も大好物だった。酷暑の12年夏も同じ。指定席の円卓を陣取り、もりもり食べながら「人間には2つのタイ...
<平成の故人>多くの野球人に頼られた名医がいる。2013年(平25)の2月、81歳で死去した横浜南共済病院の山田勝久院長。 ◇ ◇ ◇ 横浜中華街の奥にたたずむ「清風楼」。池波正太郎が愛した大粒のシューマイと特盛りチャーハンは、健啖(けんたん)家の山田先生も大好物だった。酷暑の12年夏も同じ。指定席の円卓を陣取り、もりもり食べながら「人間には2つのタイ...
ONの後を受け、巨人の混乱期を救い続けた名将がいる。2006年(平18)2月9日に心不全のために亡くなった藤田元司氏は、監督として「長嶋解任」翌年の81年と「王解任」翌年の89年から2度指揮を執り、ともに就任1年目に日本一に導いた。4度のリーグ優勝、2度の日本一を誇り、80年ドラフトでは4球団が競合した原辰徳監督(当時東海大)を引き当てた。 巨人藤田監督の年...
平成元年の1989年10月11日に生を受け、令和の節目に先頭をひた走る野球人が巨人菅野智之投手(29)だ。昨年9月から続いた大型連載「野球の国から」平成野球史編の最終回で、過去、現在、未来をじっくりと語った。【聞き手=久保賢吾】 巨人菅野 ◇ ◇ ◇ -転機は 菅野 「プロになれる」と疑ってはいなかったですけど…実際、分からないじゃないですか...
2008年(平20)4月26日、平成元年生まれのプロ野球選手が初めて勝利投手になった。当時18歳のロッテ唐川侑己投手(29)はソフトバンク戦(福岡ヤフードーム、当時)で7回を3安打5奪三振無失点に抑え、初登板初勝利と華々しくデビュー。完投勝利、完封勝利も「平成生まれ初」の記録を持つ。いよいよ幕を閉じる平成。今季はセットアッパーとして8回を任される物静かな右腕...
平成元年生まれの野球人が時代の節目に思うことは-。第3回はヤクルト田代将太郎外野手(29)。土壇場の経験が人間を大きくする。【取材=保坂恭子】 ◇ ◇ ◇ 僕は1回、死んでいる身なので、もう何も怖くないです。プロ6年目の17年、西武で初めて開幕スタメンを経験しました。でも全然ダメ。1軍の経験が少なかったので、パニックでした。練習はいい感じなの...
平成元年生まれの野球人が時代の節目に思うことは-。第2回は広島安部友裕内野手(29)が縁を語る。【取材=村野森】 ◇ ◇ ◇ チームメートの野村と僕は1989年6月24日、同じ北九州の病院で生まれました。それに気づいたのは、野村が(11年ドラフト1位で)入ってちょっとしてから。あいつが(岡山育ちなのに)生まれたのは北九州っていうから、ああ、北...
平成元年生まれの野球人が時代の節目に思うことは-。第1回はソフトバンクの打撃職人・中村晃外野手(29)。 ◇ ◇ ◇ 中村晃が、平成最後に大きな試練を乗り越えようとしている。「自律神経失調症」。開幕が迫った3月23日に本人の希望で病名を公表した。現在は福岡・筑後市のファーム施設でキャッチボール、ノック、フリー打撃を続けている。 「状態を上げる...
平成の記録を不定期で振り返る最終回は、高校野球を取り上げます。12年松井裕樹(桐光学園2年=現楽天)の1試合22奪三振と、17年中村奨成(広陵3年=現広島)の大会6本塁打は、夏の全国大会で生まれた不滅の記録になりました。 ◇ ◇ ◇ 100年以上続く高校野球の歴史の中で、史上に残る投打の大記録が平成時代に生まれた。投手部門では松井の1試合22...
「ザトペック投法」と呼ばれた闘志むき出しのフォームで巨人に立ち向かった男がいた。1998年(平10)8月に61歳の若さでこの世を去った村山実。語り草となっている天覧試合をはじめ、伝統の一戦を彩った「2代目ミスタータイガース」の伝説を振り返る。 ◇ ◇ 村山がプロ入りした1950年代は、地方から都会への集団就職が相次いだ。石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」...
同率首位、勝った方が優勝。巨人長嶋監督が「国民的行事」と呼んだ中日とのシーズン最終戦は、1994年(平6)10月8日、ナゴヤ球場で行われた。テレビの平均視聴率48・8%、瞬間最高67%を記録した究極の一戦は、6-3で巨人が勝った。その舞台裏はさまざまなところで言及されてきたが、4番落合博満が見せた「素顔」は、25年を経てもまざまざと思い返すことができる。 ...
平成のプロ野球を考える時、捕手の存在がより注目され、優秀な捕手がいるチームがクローズアップされる時代に映った。ヤクルトの古田敦也は1990年代を代表する捕手として、数々の名場面に登場した。 戦術への理解力と配球術。それは多数取り上げられてきた。捕手はグラウンドでの指揮官。常に判断を求められた。優秀な捕手ゆえのつらさを具体的に知ると、なかなかの修羅場だと理解で...
のるか、そるか。斬るか、斬られるか-剣豪の居合とも違う、野武士の泥臭い闘いが平成初期には残っていた。 1994年(平6)5月11日。神宮でのヤクルト-巨人戦は、まさにケンカだった。2回表、ヤクルト先発西村龍次が、巨人村田真一の頭部へ死球を当てた。怒りに満ちた表情の村田は、立ち上がるやいなや2、3歩マウンドへ向かいかけた。だが、脳振とうで卒倒した。 騒然とした...
セ・リーグが予告先発を採用していなかった2011年(平23)までは、取材する側と隠そうとする側の攻防が絶えなかった。 ◇ ◇ ◇ 人間にはクセがある。先発ローテーション取材の基本は練習の観察だが、調整の過程でさまざまな質問事項が出てくる。普段から練習を見ていれば、ちょっと変わった練習をすればすぐに分かる。 そうしたネタはメイン原稿のエピソード...
2012年(平24)のシーズンに、セ・リーグでも「予告先発」が導入された。 一般の野球ファンの感想はさまざまだろうが、野球そのもののルールが変わるわけではない。予告先発が導入されて野球が嫌いになったファンはいないだろう。しかし、野球記者の取材活動は、間違いなく激変した。 ちょっと想像していただければ分かると思う。シーズン中は、前日に先発を予想し、翌日の試合前...
ススキノのジンギスカン店は、ニンニクとラムの焼けるにおいが充満していた。日刊スポーツが「史上初の惨劇」と1面で取り上げた敗戦の夜。楽天の守護神・福盛和男(当時33)はススキノの有名店「だるま」にいた。下戸の彼は、酒も飲まずにジンギスカンをほおばっていた。 コの字形のカウンター、客は日本ハムファンだらけ。劇的勝利にアルコールの勢いも加わり「今日は福盛のおかげだ...
地に足がつかなかった。2000段以上の階段を上がった。大阪の下町、新世界にある通天閣。高さ103メートル、階段は503段ある。2001年(平13)、12年ぶりにリーグ優勝を果たした近鉄梨田昌孝監督(当時48)に同行し、普段は入れない内部の階段を使って4度登頂した。決行日は10月8日。15歳のときに亡くなった指揮官の父豊さんの命日だった。 ◇ ◇ ...
2018年(平30)8月18日、第100回記念全国高校野球選手権大会準々決勝。金足農(秋田)が近江(滋賀)を3-2で退けた逆転サヨナラ2ランスクイズは「カナノウ旋風」の象徴として強烈なインパクトを残した。驚きと感動が最高潮に達した状況の中で、ウイニングボールを巡るもう1つのドラマがあった。 ◇ ◇ ◇ 金足農の佐々木大夢主将は、スクイズを決め...
巨人、ヤンキースなどで活躍した松井秀喜(44)は、平成時代に日米通算507本塁打を放った。プロ1号と最後の507号。2本には共通点があった。 -◇-◇- 2012年(平24)6月1日。レイズ松井は、オリオールズ戦で先発チェン(元中日)から2号本塁打を放った。146キロの内角速球をコンパクトなスイングで捉え、右翼席最上段まで運んだ。 本来の弾道だった。当時37...
イチローVS野茂。平成時代に伝説となった2人は日米両国でしのぎを削った。 --◇-◇-- 2001年(平13)5月2日、シアトル。日本人メジャーのパイオニア野茂英雄(レッドソックス)と、初の日本人野手としてデビューしたイチロー(マリナーズ)の米国での初対決が実現した。 2打席目まではイチローが凡退した。5回2死二塁の第3打席。野茂が投じた144キロの内角速球...
記者席でアナウンスを聞いて「やった!」と思ったのを覚えている。喜びの「やったー」ではなく「やっぱり…」の意味だ。 2013年(平25)7月6日のソフトバンク戦。楽天星野監督は、3-4の3回に動いた。先発戸村が勝ち越しを許し、なお2死三塁で3つ目の四球を与えると堪忍袋の緒が切れた。杉永球審に投手交代を告げる。名前を聞いた同球審は驚いた顔をした。「則本」。前日5...
2007年(平19)の日本代表は、2度の奇襲を成功させ北京オリンピック(五輪)アジア予選を突破、1枚しかない切符を手にした。繊細な日本野球の証左として、星野仙一監督(当時60、故人)が繰り出した手を振り返る。 ◇ ◇ ◇ 12月2日の韓国戦は、試合前にドラマがあった。 相手は先発をダルビッシュ有と読んでいた。右投げの打撃投手だけで直前の練習を...
<東野の中0日・下>2008年(平20)の巨人は、阪神に最大13ゲーム差をつけられながら逆転優勝を果たした。坂本勇人、山口鉄也ら若手が台頭する中で、高卒4年目の東野峻投手(現DeNAスコアラー)は、平成で3人目となる「登板翌日の先発、完投勝利」を達成した。世紀の大逆転を加速させた完投劇を2回で振り返る。 ◇ ◇ ◇ 2008年(平20)9月2...
<東野の中0日・上>2008年(平20)の巨人は、阪神に最大13ゲーム差をつけられながら逆転優勝を果たした。坂本勇人、山口鉄也ら若手が台頭する中で、高卒4年目の東野峻投手(現DeNAスコアラー)は、平成で3人目となる「登板翌日の先発、完投勝利」を達成した。世紀の大逆転を加速させた完投劇を2回で振り返る。 ◇ ◇ 08年9月23日の広島...
平成を彩った名場面にフォーカスする。第1回は伊藤智仁と篠塚和典の攻防。高速スライダーで大記録目前のルーキーに、希代のヒットマンが立ちはだかる。 ◇ ◇ ストレート、と思った球がククッと曲がる。ヤクルトのルーキー、伊藤のスライダーは本当に横滑りする、ように見えた。そもそもスライダーとはそういう球種だが、多くの投手の場合は鋭く小さく曲がって落ち...
プロ野球の歴史は、グラウンドにだけ刻まれるものではない。スタンドにだってある。現地観戦派のファン3人が語る、もう1つの「平成プロ野球史」。第3回は野球音楽評論家・スージー鈴木氏が球場音楽を語る。【取材・構成=秋山惣一郎】 球場内の通路を抜けると、青い空が広がり、グラウンドの緑が目に入る。のんびりとした試合前の風景。席を探す私の耳に、静かに流れる音楽が聞こえて...
プロ野球の歴史は、グラウンドにだけ刻まれるものではない。スタンドにだってある。現地観戦派のファン3人が語る、もう1つの「平成プロ野球史」。第2回は漫画家・渡辺保裕氏が球場グルメを語る。【取材・構成=秋山惣一郎】 ◇ ◇ ◇ 秋のナイターは寒いし、腹も減った。あったかいうどんでも食うか、と通路に出たら、売店の前は先頭が見えないほどの大行列。あり...
プロ野球の歴史は、グラウンドにだけ刻まれるものではない。スタンドにだってある。現地観戦派のファン3人が語る、もう1つの「平成プロ野球史」。第1回は横山健一氏がロッテ愛を語る。 ◇ ◇ ◇ 少年時代からのオリオンズファンが高じて応援団員となり、ロッテ本社に入社した私が、球団職員となったのは1993年(平5)のことです。川崎から千葉に本拠地を移し...
平成の記録を振り返る6回目は、個人打撃ランキング編です。平成で最も本塁打を打ったのは476本の金本(阪神)で、同選手は安打と打点も1位になりました。昭和は王(巨人)が本塁打と打点の2冠でしたが、平成は金本が「3冠」を獲得しました。 ◇ ◇ ◇ 平成後半は野手もメジャーへ挑戦。日米通算ではイチローが4367安打、松井秀喜が507本塁打、1649打点を記録...
今ではチケット入手困難な球場となった横浜スタジアム。2012年(平24)シーズンからDeNAが本拠地とし、1998年(平10)の日本一以降に低迷した赤字球団を立て直した。苦しい時代も地域密着を貫き、ベイスターズの歴史を紡いだ人物が、横浜最後の球団社長で“ハマの黄門さま”と呼ばれた加地隆雄氏(享年74)だった。 ◇ ◇ ◇ 「俺が電話すれば由美かおるは必...
日本人選手がメジャーで活躍するのが当たり前になった平成時代だが、そこに至るには先人たちの苦労があった。通訳や代理人として日米で多くの選手をサポートし、2007年(平19)に手術で男性から女性へ生まれ変わったコウタ(56=本名・石島浩太)。女優、ギタリストとしても活動する彼女の波乱の人生と日米の野球史を振り返る。 ◇ ◇ ◇ コウタは手術を受け...