丹波が生きていれば松坂以上に/渡辺元智5
横浜の同期生で名参謀の小倉清一郎とともに高校球史に残る歴史を築き上げた。「小倉も教職を取ったが、ほとんど授業は教えなかった。その間、野球の勉強をものすごくしていた。勝たせる野球、ID野球をね」。渡辺の精神野球と小倉の戦略野球は見事にマッチした。名前を「元智」に変えた翌98年、エース松坂大輔を擁して達成した甲子園春夏連覇は、高校野球の枠を飛び越えて世に知られた...
横浜の同期生で名参謀の小倉清一郎とともに高校球史に残る歴史を築き上げた。「小倉も教職を取ったが、ほとんど授業は教えなかった。その間、野球の勉強をものすごくしていた。勝たせる野球、ID野球をね」。渡辺の精神野球と小倉の戦略野球は見事にマッチした。名前を「元智」に変えた翌98年、エース松坂大輔を擁して達成した甲子園春夏連覇は、高校野球の枠を飛び越えて世に知られた...
80年夏、準々決勝の箕島(和歌山)戦は3回までに3-0と優位に試合を進めたが、5、6回に1点ずつ返された。横浜は4回以降無得点。終わってみれば3-2の接戦だった。右翼手の沼沢尚は3安打したが、失点につながる失策をした。渡辺はベンチで冷たい視線を投げかけた。 その夜、兵庫の竹園旅館で風呂に入った後、素振りに向かう沼沢とすれ違った。恐る恐る自分を見る沼沢に「明日...
「夏の呪縛」にさいなまれた渡辺が行き着いた先は北海道だった。「どこか遠くへ、遠くへ行きたかった」。女満別空港へ降り立ち、網走、知床を転々とした。釧路のビジネスホテルに着くと学校へ辞表を送った。しばらくして妻紀子に電話をかけた。「金もない、何もない。心細さの募る夏…」。ポツリ、ポツリと話す声を聞いた妻の脳裏には最悪の事態がよぎった。「後々、女房に『摩周湖にでも...
渡辺の標的は定まった。「打倒東海、打倒原」。元巨人監督の原辰徳の父である原貢は、65年夏に初出場の三池工(福岡)を優勝へ導き、東海大相模へやってきた。原の元へ、全国各地から有望な選手が集結した。「相模には日本一のグラウンドと選手がいて、うちは落ちこぼれ。ひがみや、ねたみもあった」。渡辺が就任した翌69年夏の県大会決勝で初めて相まみえ、0封負け。東海大相模が甲...
全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念や、それを形づくる基点に迫る「監督シリーズ」ラストを飾る第16弾は、横浜(神奈川)を率いた渡辺元智さん(73)です。生きるために野球を始め、1965年のコーチ就任から始まった指導者生活は、2015年夏に平田徹新監督(34)に託すまで半世紀に及びま...
池田高校にも春が来た。3月10日、三好市吉野川運動公園池田球場には池田ナインの声が響いていた。18年の練習試合初戦。 最近は必ず智弁和歌山が池田までやってくる。池田の元監督・岡田康志や現監督・井上力と、智弁和歌山を率いる高嶋仁との縁で、春を呼ぶ一戦が行われている。高嶋は公式戦と変わらない試合中立ちっぱなしの姿勢。智弁和歌山の選手も力を存分に出した。池田はダブ...
タヌキに化けたことがある。 「タヌキ? そんなんではないわ。あのときは正直に言うたまでじゃ」 86年春に池田(徳島)は決勝で宇都宮南(栃木)と対戦した。雨で1日順延となって、決戦前日の監督取材で蔦文也はタヌキになった。 報道陣を前に、相手エース高村祐の投球フォームにクセがあると話しだした。「ストレートかカーブか、分かってしもうた。腕が、高く上がったときはカー...
甲子園へ来て、蔦文也が大失敗をした。グラウンドではなく、決勝戦前夜に池田(徳島)の定宿・網引旅館で起こったことだ。 74年春のこと。甲子園は2度目の出場でセンバツは初だった。そこで決勝進出を果たした。池田は部員11人の「さわやかイレブン」で無欲の勝ち上がり。相手は地元兵庫の人気校・報徳学園となった。相手校のことは一時置いて、池田の決戦前夜のミーティングをのぞ...
豪打のチームを作り上げる蔦文也は「攻めダルマ」と呼ばれた。それに関して本人は「気に入っとるとか入らんとかではなくて、気にしとらんかった」と答えた。 池田(徳島)の監督・蔦の野球を単なる打撃重視と考えない人物がいた。鴨田勝雄、新居浜商(愛媛)-法大-日本IBM野洲で監督を務めた智将で、02年に亡くなったが、こんな言葉を残している。 「蔦監督の野球はもともと瀬戸...
全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」の第15弾は、池田(徳島)を率いた蔦文也さんです。01年に77歳で亡くなった蔦さんは「攻めダルマ」の異名をとりました。豪快な打撃のチームで82年夏と83年春を連覇するなど、甲子園の優勝3回。実は蔦さんの野...
高崎健康福祉大高崎の監督室から外に出ると、ことわざが書かれた大きなボードが見える。青柳は毎回の練習前、その言葉を目に焼き付けて、グラウンドに足を踏み入れる。 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」 自らを戒め、練習を開始する。創部10年目の11年夏に甲子園に初出場。春夏で計6度甲子園に出場した。だが、「機動破壊」で全国区に押し上げた今でも、創部当初の部員たちの姿を脳...
12年春のセンバツ、高崎健康福祉大高崎は初出場で4強に入った。甲子園後に行われた春季群馬大会、関東大会でも優勝。監督の青柳博文は夏に向け、自信を深めた。だが、大会前に絶対的エースの三木敬太の疲労骨折が判明。チームは県大会4回戦で伊勢崎清明に1-8で敗れた。まさかの8回コールドだった。 青柳 高校野球のエースは先発完投だと、固定観念があったんです。でも、その概...
11年夏、創部10年目で甲子園に初出場した高崎健康福祉大高崎は、昨年までに春夏で通算6度の甲子園出場を達成した。インパクトある“機動破壊”の言葉とともに、健大高崎の名は全国に浸透。それでも、創部から監督を務める青柳博文は「毎年、甲子園に行って、勝てるチームを作りたいんです」と言った後、世界的企業の育成システムを例に挙げた。 青柳 マクドナルドのハンバーガーは...
10年夏、高崎健康福祉大高崎監督の青柳博文は野球観を180度変えた。群馬県大会の準決勝で前橋工に0-1で敗戦。三ツ間卓也(現中日)ら140キロ超えの投手が3人いても、甲子園を逃した。02年の創部時になかったグラウンドが07年に完成。選手、環境が整った中でもはね返され、後がなかった。 青柳 今、思えば選手の見極めも下手でしたし、能力にかけて、心中する野球でした...
全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第14弾は、群馬の高崎健康福祉大高崎を率いる青柳博文監督(45)です。元々は女子校だった同校の野球部の創部1年目に監督に就任。機動力を駆使した「機動破壊」で、“健大高崎”を全国区に押し上げた青柳監督の物語...
春夏6度の甲子園制覇を誇る大阪桐蔭でも、甲子園を知らずにユニホームを脱ぐ者もいる。阪神岩田稔もその1人だ。聖地の土は踏めなかったが「大阪桐蔭に入っていなければ、今のぼくはない」と言う。 岩田 西谷監督からはよく「野球だけをやっていたらあかんぞ」と言われていました。1人の社会人として恥ずかしくないようにとあいさつ、礼儀の大切さを教えられてきました。 指導、育成...
大阪桐蔭野球部長の有友茂史が、苦笑とともに明かす西谷浩一の逸話がある。秋の国体で西谷と同室になった。真夜中、誰かの話し声で目が覚めた。隣のベッドで眠る西谷が、しゃべっていた。 「○○監督の胸をお借りし、チーム全員で一丸となってなんとか勝たせていただくことができました!」 なんと、夢の中で西谷は勝利インタビューに応じていた。おちおち寝てもいられないほどの明瞭な...
登校してきた部員に向けられた報道カメラのシャッター音を聞きながら、西谷浩一は夢の終焉(しゅうえん)を悟った。報徳学園(兵庫)3年、17歳の晩春だった。下級生部員の暴力事件が発覚。野球部は夏の兵庫大会を辞退することになった。高校最後の夏を迎える前に、学校から自転車で通える距離の甲子園は、手の届かない場所になった。目標を失った3年生部員は1人、また1人と、部を去...
中田翔(日本ハム)との3年間を経て、西谷浩一が確信したことがあった。有望な選手ほど、悪評も立ちやすかった。西谷は練習に足を運び、「態度悪いで」といわれるうわさの真偽を確かめた。堺ビッグボーイズの森友哉(西武)もその1人だった。 いい選手かどうかの線引きとして、野球が本当に好きかどうかを知りたかった。野球への愛情の深さを知るには、練習を見るのが一番だった。 西...
全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第13弾は、大阪桐蔭を率いる西谷浩一さん(48)です。監督として、春夏通算5度の甲子園優勝を誇る実績は、西谷さんの指導力のたまものです。屈指の勝率の裏にあるものは-。その背景を全5回でお送りします。 07...
18年が明けたばかりの1月6日、5人の男が兵庫・西宮市の阪神球団事務所を訪れた。39年前の夏、甲子園で延長18回の熱戦を演じた箕島(和歌山)と星稜(石川)の元メンバー。箕島の上野山善久、星稜・山下靖の両元主将、悲運の転倒の星稜一塁手・加藤直樹らが球団社長の揚塩健治を表敬訪問した。 10年に甲子園歴史館創設の奉納試合として同社長が甲子園での箕島-星稜戦の「再々...
山下智茂率いる星稜(石川)は95年、春夏連続で甲子園に出場した。センバツは3年ぶりの8強入り。夏も初戦(2回戦)でエース山本省吾(元ソフトバンク)が県岐阜商を完封し、3回戦に進んだ。戦う中で、山下は考え続けていた。 山下 ベスト4の壁を破るのは何か。それをずっと考えていました。 先に進むチームとの差は何なのか? 山下の自問自答は続いた。そんなとき、チーム宿舎...
北陸の球史を変える左腕になるかもしれなかった。76年夏の小松辰雄(元中日)の剛腕、91年夏の松井秀喜(元ヤンキース)の打棒をもってしても、越えられなかった甲子園4強の壁。それを95年夏のメンバーは越えた。2年生エース山本省吾(元ソフトバンク)が準決勝・智弁学園(奈良)戦で1失点完投勝利。山下智茂率いる星稜(石川)が、全国制覇に王手をかけた。 戦力からすれば、...
見ている方まで息が切れ、胸が苦しくなるような練習がこの日も始まった。前田100万石の城下町・金沢が若葉に包まれる5月。小坂町南の星稜(石川)グラウンドでは、壮絶な個人ノックが繰り広げられていた。 監督の山下智茂対3年生エースの堅田外司昭。正確さとスピードを兼ね備えたノックを、山下は堅田1人に打ち続けた。 堅田 春の県大会で準決勝で負けたんですけど、そこから1...
全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第12弾は、星稜(石川)を率い、現在は同校の名誉監督を務める山下智茂さん(73)です。箕島(和歌山)との対戦など、数々の名勝負を残した山下さんの物語を全5回でお送りします。 85年8月、テレビ放送で解説を...
明徳義塾を率いる馬淵史郎は「松井の5敬遠」で世間から猛烈なバッシングを浴びた。受理されなかったが、迷惑をかけたことで辞表を提出。その後、02年夏の全国制覇を成し遂げるまで、批判的な投書は収まらなかったという。92年のメンバーの1人で、済美の監督・中矢太は当時のことをよく覚えている。スタンドから「殺すぞ」というヤジがあった。試合後、ベンチ裏で座っていると、隣の...
86年秋に馬淵史郎は阿部企業の監督を辞任した。日本選手権では決勝まで進んだが、負けた試合が最後の指揮になると腹を決めていた。準優勝を区切りに-、といった格好のいい理由ではなかった。 馬淵 社長が采配に口を出してきた。あの選手を使え、と。それが嫌だった。負けたら、監督の責任になる。どうせやるなら、自分の好きなようにやる。 創業者の社長は野球部長も兼任するほど、...
馬淵史郎率いる阿部企業は86年に都市対抗初出場を果たす。初戦の相手は優勝候補の三菱自動車川崎。当時、豪快な打撃で「神戸の暴れん坊」の異名を取ったが、さすがに分が悪かった。そこで馬淵は一計を案じた。都市対抗には補強選手制度がある。阿部企業は、三菱グループの選手を加入させていた。大会直前にグループ会社で激励会がある。そこを狙った。補強選手にこんな指示を出した。 ...
阿部企業に入社した1年後に、馬淵史郎にとって母校三瓶(みかめ)高の恩師で、当時阿部企業の監督だった田内逸明が急逝した。コーチ兼マネジャーだった馬淵は過酷な日々から解放されると思った。しかし、待っていたのは、監督就任の要請だった。「お前が最年長だから。1年でも2年でもやってくれ」。チームの活動再開にあたり、田内とともに馬淵は選手集めを手伝っていた。そのため、四...
全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第11弾は、明徳義塾(高知)を率いる馬淵史郎さん(62)です。異色の経歴に、個性豊かな語り口。そして歴代5位の甲子園通算49勝を誇る実績。つらい時代も経験しながら勝利を重ねてきた馬淵さんの物語を全5回でお...